「北極星を目指して」 (左脳のひらめき)

I'm your polar star in the journey of life.

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2010-11-16
パワースポットも色で見えるようになると、分かりやすいんじゃない?

こんにちは。

エネルギーとか神とか、そういうもんをどうやって定義したかって事を書こうかなと思いましてね。

基本的には、エネルギーも神も、波長の中で存在するから、色ってのがあります。

まぁ、人の視覚って意外と、あやふやなもので、人の嗅覚って意外とあやふやなもので、どんな感覚にでも、必ず成長したら成長しただけ、先入観が入る。

それが、全く先入観がない子が、部屋の隅を指さして、ワンワン、ここ。ワンワン、ここ。ってやることあるでしょ?いや、うちの次男坊がそういう子な んだけれど、実はね、ワンワンって表現も、先入観。片言の1歳半がどこまで頼りになるかは置いておいて、ワンワンのようなものがいる、つまり、四足でワン ワンに似ているものがいるって表現なんだよね。子供の場合はね。

ただ、反対に、うちの長男坊のように、「うわぁ、軒先から、大きな顔がぶら下がってたぁ」ってなると、これ、どういう先入観なんだか、よく分からな いです。ただ、その後事実関係をよく洗い出してみると、実は、そこで、首をつった人がいた。たまに、そこに出るらしい。それが、どういう条件のもとで出る かはわからないので、首をつった人の家からは、引越ししましたけれどね。

まぁ、彼らの表現聞いていると面白いんですわ。

結婚式のような人が家中歩いていると、長男がいうんですが、どういうことかよく聞いてみると、「マリアベール」というベールをかぶった人が家中を歩 いているとのこと。羽の生えた白いゆったりした服を着ている人が歩いている時もある。腰に、金が見えるので、なんだろうね。ベルトかなって。

 

・・・・・・・・・・・・・・・。お前、それ、花嫁やない。マリアや(涙)。

マリアベールは、そもそも、マリアがそうやって着けるからマリアベールだろう。経験なカトリックなら、ミサの際には、頭からレースかぶってんぞ。そ れより、羽が生えた人はなんでこんなところをウロウロしているんだろうね。探しものがあるのか、おとしものなのか、ただでさえ狭い家が、もっと狭くなる わって言ってやれって思ったんですわ。

さて、んじゃ、神とか、エネルギーってどうやって定義しているのか。また、どうやって呼ぶんでしょうか。

その前に、先入観という知識の前に、人には幾つか種類があって、そもそも、真っ白なキャンバスに、新しいものを描けない人っていうのがいるのね。

そういう、何かを生み出すクリエイティブさと、精神の不安定さというのは、いつでも隣り合わせなんですけれど、クリエイティブに走れば、論理思考はおろそかになるし、論理思考で走れば、知識だけで、なにか新しいものが生み出せない自分となるんですよね。

そこって、すごく微妙なバランスなんですよ。

知識で、なんでも答えられるって分野であれば、活躍できそうでも、クリエイティブで、いつも斬新なイマジネーションを生み出す人とは、明らかに脳の 使い方が違うんですね。発達の仕方も変わってきます。柔軟に考える部分という面があってもいいのではないかと思うんですが、知識武装というのは、恐らく当 人における、何かわからない、正体不明のものに対する恐怖心からくる「理論武装」かなと思うことがあります。

だから、知識だけに偏る人は、中々イマジネーションが難しいですよ。神を呼ぶって言ったって、神がイメージ出来ない。基本はね、既存の先入観の中で、イメージしていくんですよ。

 

酒の神バッカスっていったら、どんなものを思い浮かべるか。そういうことからの連想キーワードで走っていける人と、そもそも、アルコールに酔った感 覚を既に自分の中に知識として持っているのか、それひとつにしても、神なんて、エネルギーなんて、幾らでも解釈が変わるんですよ。波動や波長一つも変わる んですね。

 

それで、万人が見て、万人の様々な価値観の中で、それでも、これは、みんなが見て「酒神バッカスだろう」と思われるものが、現在の正解になるわけでね。まぁ、そんな感じで、神とかエネルギー体の呼び方なんてあるんですよ。

色彩もそうですけれど、実際は、個人個人、若干色彩の認識が違うんですよ。同じ赤でも、全く同じに見えているわけじゃないんですよ。生活様式が違う だけで、様々に見えるんですね。でも、赤を並べておくと、うーん、青ではないから、赤かなって感じで、結局、その波長の長さの光は、赤と認識されているん ですね。オレンジと赤のところは、判別微妙な人結構多いです。

ダイヤモンドでも、DカラーとEカラーは、実は、鑑定者の感覚で決まっています。鑑定者が、Dだって言えば、Dで。Eだって言えばEで。いい加減で すが、そこを測るものがないので、感覚で決まります。基本的に、似たような色彩感覚をもたせるように訓練していくので、似たような判別を覚えるのですが、 訓練しても訓練しても、結果的には、身体的な判別者の特徴によります。


なので、マスターストーンという色見本を用意して、色見本で仕分けていくと間違いが少なくなります。

 

と言うことはですよ。同じ宝石を見ても、同じ石を見ても、万人が同じ価値観を得にくいのは当然なんですね。

 

すべての人が、キラキラ光った色の中に、同じ色が見えるわけじゃないんですよ。

それ程、あやふやな、わたしたちの色彩感覚なんですね。赤といっても、赤も、微妙にワインレッドが好きな人もいるし、微妙にピンクな赤が好きな人も いる。それは、あまりに当然な、わたしたちの持っている目の特徴なんですよ。凄く精密にできてそうに見えてて、実は、色彩一つさえも、同じじゃないんです ね。

 

神ってのはまぁ、置いておくとしてですよ、エネルギーってのは、基本的には、先入観バリバリの中で、万人が見てそうだと思えるものに出来れば、それ で出来上がりなんですよ。まぁ、畑違いの話を持ちだして恐縮ですが、ゴッホを見て、ひまわりだなと分かる人はいいですよ。絵画を見て、

「何いってんだかよくわかんない(苦笑)」ってアートは沢山ありますでしょ。

基本的に、エネルギーもまた、アートなんですよ。

ただ、波長や波動ってのは、基本的に、ウェーブがあるので、ウェーブがどの位の長さかということで、色彩感覚として万人がそれを見て、幾つなら赤だ と思うんですよ。だから、逆に、神を呼ぼう呼ぼうとか一生懸命思う前に、色彩を作り出すこと、空間にその色を作り出せることって凄いことになるんですね。 万人が、青を見てクールだと思う。ついでに、ひんやりすれば、もっとクール。

こうして、どの人にも認定してもらえるものがあれば、それでいいんですよ。それが、始まりじゃないですか。

神の前に、色で始めても何ら問題はないですよ。色の次に、別途として、勢いや、エネルギッシュや、憤怒や、浄化や、色々なものをオプションとしてつけていけばいいんです。なんら、真っ白いキャンバスに描けない人は、先入観を利用するのは手なんですよ。

ただ、それで、偉そうぶる人ってのは、結局はその傲慢さが、エネルギーの質にも出るんです。傲慢さは、常に、誰かへの妬みや、誰かに負けたくないと いうプライドの高さからくることもあるので、そういうのが、質に出たエネルギーで癒されるとは思えないんですね。まぁ、傲慢な人は、傲慢系の神々をイメー ジしていけば、地のまんまでイケますよ(苦笑)。無理して自分を変えようとして、神をイメージするのなら止めませんが、傲慢系は、傲慢でいいんですよ。無 理する必要ないです。そもそも、無理しようとは思ってらっしゃらないと思われますんでね。

色ごと好きな人は、絶倫ゼウスとか(失笑)。潔癖症は、ディアナとか。神様も多種多様ですから、古今東西探していけば、今の自分が背伸びしなくてもマッチする人が必ずいます。まぁ、そういう風に作ってあるのが、神話なので、大丈夫です。

癒すってのは、また別ですよ。癒して「あげる」とかだったら、もう、そいつにしてもらわんでもええですわ。

 

そんなんで、首吊りで死んだ人の残像が見えるのは、これもまた、波動なのかというと、そうなんですね。その人の悔しさが残るってことより、見た人の ショックもありますし、何度もそこで思い出せば、定着もするでしょうしね。ある程度暗くて、ジメジメしてたら、人って必ず、そこに、マドモアゼル・貞子を 探したがりますしね。

ところで、わたし、最近、ホント半年かけて、修行しました。職場で仕事上、デキルようになったんですが、ばっさり、念をカット。相手の執着まで、斬り捨て御免(笑)。

 

なんとなく、こういうのって、やっぱ、妄想たくましく家に引っ込んで、あれこれ考えるより、実地でやって、経験積むほうが早いですよ。

 

ちなみに、わたしは、職種の都合で伸びた部分がありました。

 

あと、家の中をうろつく人に関してですが、あれは、うろつけと言っているわけではなく、なんで、よりによって、家の中なんですかね(涙)。よそんち イケばいいのに。もう、「マリアの突撃・隣の晩御飯!」ってやったら、面白いと思うんですがね。結構特定の人の家に出るんですよ。あの人って、意味不明で すわ。一番理解できない人の最先端を走ってらっしゃる。

 

しかし、この場合も、マリアさんというより、マリアさんと言うイメージに周りが先入観で見えるんですよね。本当に、警告して歩くのは、マリアさんで も、別の影武者だったりして、そこんところまでは、詳しく見ている暇がないんで恐縮ですが。大体、青い服、白い服、ワインレッド。

 

たまに、妖怪のようなカッコした、マリアさんって出てこないんですか。

 

聞いた限りでは、マリア観音止まりですわ。だから、やっぱ先入観なんですよね。

 

さて、そんな感じで、また、続きは今度。

 

 


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こんにちは。


わたし、常々言うんですが、「今、牛肉食べたから霊能力が衰える」とか言う奴、嫌いなんですよ。んな、今の目の前のステーキひとつで、衰えるような霊能力、はなから、話にならねーだろと思っています。一生懸命、ベジタリアンしてくるのも、涙ぐましくて、微笑ましいんですが、健全な社会生活を踏み外してまで、そこまで、霊能力で飯を食いたいかと尋ねてみたいです。

全てのエネルギーは循環するのに、「知識」の循環を止める奴も嫌いなら、食わない奴も好きじゃない。必要とする分は食べたほうがいいんです。餓えて霊能力がある とすれば、そりゃ、車の運転もおぼつかない判断力以下でしょ。食べて元気に動くもんですよ。必要以上食べている人は、過食は、ストレスをのどに無理やり押し込んで、性的快楽を追及しているだけだから、吐くのも含めて、自慰行為だと思ったほうがいいでしょう。

基本的に、沈んだ太陽ではありませんが、日本は不思議な捉え方をする国です。「莫大なインセンティブ」の為に、「リスクを取ろう」とする国が、星条旗の国なら、日本は、どうも「その莫大なインセンティブ」に値するものを「徳」で納得しろって言うんですよ。

不思議ですよね。徳ですよ。徳じゃ、日々食えないですよ。極度なリスクも取れないです。でも、こういう分野で単なるキワモノ扱いだと言うのに、あえて「キワモノリスク」を取りに行く人は、本に出たりメディアに出たり します。引き換えに、お金が多くなります。それを、叩くんですよ。出ない奴には、出た奴のリスクなんかわかりませんしね、出た奴の、ボロクソなまでの叩かれ 方見て、ドンびくでしょう。

で、言うんですよ。徳を積めって。

いやいや、霊能力は、お茶の間のエンターテイナーですわ。

まぁ、物質界が悪いとかいいとかじゃなくてね、物質もなきゃだめだし、精神性もなきゃだめなんですよ。時間だって人に割くには、自分の何かをやめなきゃい けないわけですよ。
倫理に触れること、法に抵触すること、自分が覚悟ができなくて、ビビりの相談に行く人や、愚痴をこぼしに行く人は、無償でお願いしますと言って、「徳」という見えないもので、対価を払っているつもりでしょうけれど、それでは、相談相手は、飯 も食えないですって。何にも続かないですよ。清貧で生き延びられないんですよ。

わたしは、ここでブログとして書いていますけれどね、色々事情も過去もありました。だからと言って、それを「徳」と呼ばれてしまうと、まぁ何とも言えないですよ。好きなことだけ、書いてるだけで、不思議な生活の中で、何があるんだろうと思うから、やって続けられる訳なんです。
だから、出版は、こんなリスクは取れないですよ。昔、真実を語って、叩かれる恐ろしさって、身をもって知っているんでね。

さて、世の中、随分、何も知らない人が、大きな声で、「この霊は」とか言ってるの見てると、身がすくみますよ。わたしでも、「マッドな好奇心」とまで呼ばれて、色々知識はありますけれどね、知らないって怖いもんですよ。確証に繋がらないと、絶対言えない言葉です。あえて、言うなら、リンゴは下に落ちる。その理由位確証が持てないと難しいですね。

まぁ、ひとつだけ例をあげると、日本って、魏志倭人伝によって倭の国王がいたって話しになってますよね。あれ、「魏志倭人伝って本は実在しない」んですよ。
東夷伝という本の一部に、倭の事が書いてあったんです。倭って国も倭王ってのがいたから、いい加減に、倭人とか呼んでね。高句麗人、新羅人、まぁ、ミソクソな交流で、元々、純粋な国じゃないんですよ。

それを、天智さんの時代に、国粋主義にさせるには、歴史伝が必要で、そこに神だの何だのを盛り込ませたのが、始まりなんですよ。精霊たちとはちょっと違う んですよ。で、国粋主義にするには、一国一民族とするのは、どの国でも決まりごとのようなもんでね。他の国でも随分あるかと思います。まぁ中国はどうやっ て中国かと認識したかといえば、ついこの間まで、漢字だけで取引をしていた国で、漢字を持つ種族=中国という認識があったようですよ、

まぁ、そんなもんでね、実際に古事記でも、実編纂の年と、歴史上の編纂の年は違うんですね。必要ですよ、国民を一丸とさせるには、そういう事書く必要がある。だけれど、それにて、一丸となって信じてきたのは、今までの歴史なんですよ。

ここまで、お前の開発した技術は、「徳」にて企業に寄付(搾取され)し、企業はそれで金を儲け、皆に分けるのは少なめにね、てへぺろってなったのが、歴史になってきたのは事実でしょ。

個々を重んじるようになったのはつい最近ですよ。

でも、あんまり、「徳」「徳」言わないでほしいんですよね。徳積むのも必要ですよ。ですけれどね、その人の「徳」につけ込むビジネス展開が、今の経済社会なんですから。 凍ったって、仕方ないでしょ。やり方が悪ければ、一から、経済の発展の為に、目先の利益を追うなって事ですよ。そっちの方が「徳」でしょ。

まぁ、そんなんで、最近、アセンションビジネスがなんか、盛り下がっていたり、アセンションビジネスに食いつく人のレベルを見ていると、クズの集まりだなと思うことがあります。コツコツ努力もせず、一発勝負で、逆転劇ですか。そういう風に考えるからこそ、余計に金がなくなり、信用も失うんですよ。
ほんと、2000年過ぎた後の、あの妙な空虚感、結局空から何も降ってこなかっ た、あの空虚感があるの、盛り上がっただけに嫌だったでしょ。

健全に生きましょうよ。健全に。出典も、歴史も、日本目線の東洋史ばかりではなく、世界史、 色々な本を読みましょうよ。知るって大事ですよ。

まぁ、日本の世の中強引に回そうとすると、回さない方が利益がある人たちがこぞって反対をしますけれど、あれも、人や企業を蝕ませた存在の既存利益を渡したくないんですよ。

わたしも、昔から社会インフラ、企業インフラで仕事をしてきましたが、透明になっては困る事情の人って結構いるんです。でも、その人たちが、どう、職場で仕事もせずに一日を過ごしてきたのか、コストカットしたり、予算を増やしたりしないと、成長しないんですよ。

まぁ、あなたが、花に水をやる時、「徳」をつんだと言いますか?雑草や間引きを抜いた時、どう思いましたか?




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こんにちは。


普通外見から分からないモノを、見るのに何が得意分野ですか?という話をたまに貰う。

まぁ、見ることはしちゃいけないけれど、ブロックしていても見えるのは、生と死。特に、女性の子宮は、我ながらに情けないことながら、「生理中」かどうかを見るのに長けていた時期があった。

生理中かどうかを見るのに長けた理由は、相手がトイレに頻回に行きたくなった際に、なるべく阻害しない店を選ぼうと言う、「余計なお世話(笑)」か らである。およそ、100%当たるので、嫌な顔もされる。しかし、神様はご清浄なモノが好きで、生理の血は嫌いだと言う説もあるが、古代より、死は生を 持って清められてきたと考えるので、そんなこともないだろうと思う。

未だ、女性の子宮から湧き出でてくる、「生」を見るのは得意だけれど、残念ながら、授かる予定なのに、授からないケースも多々ある。

理由は、その家族に何か大きな不幸があった時、大体は、その小さな命が、文字通り体を張って食い止めるからである。だから、流産して悲しみに暮れて いる人の中で、流産して実はよかったと思えることもある。ただ、余りに悲しくて心を閉ざす前に、何度か、流産癖を防止してでも、命を授かると、母体のメン タルは、保たれる。他に子供がいる時は、その子供を大事にしてあげることが必要なんだろうと思う。

ってところで、死も割とよく見える。

死ぬ人の後ろは暗く、未来が見えない。

基本的に、死んだ顔が見える時は、当人にそれとなく、「食べ物に気を付けて節制しろ。」とか、「酒を飲むな」とか、「高いところに上るな」とか、暗 示を込めた言葉を言う事がある。食べ物系は、それこそ、食べ過ぎで亡くなることもあれば、中ることもある。死の原因の顔を見ていると、高いところから飛び 降りそうだとか、遠いところで、野垂れ死にするんだなとか、そんなことが、大体はぼんやり分かる。

普通の霊能者は、こんなことを言わないし、伝えてはならないと言う。

わたしも、幼い頃から父の早世を気にしていたので、死ということばではない言葉で、相手に伝える術を考えていたのだろうと思う。死というと、大体の 人は、それが発言力のある人であればある程、暗示がかかって、そっちへ歯止めが効かなくなるものであり、死ななくてもいい人が亡くなるケースもある。だけ れど、食事の塩分で亡くなるとか、脱水とか、そんなところは、大体オブラートに包んで、相手に伝えればいいと考えている。

ただ、これで、昔は、死ぬ予定の人を死なせなかったので、返りの矢というものがきて、代償を払わされることになったことがあった。

けれど、最近はそうでもない。死ぬ予定の人は、「食べ物に気を付けろ」と言っても、やっぱり過食するし、「脱水に気を付けろ」と言っても、サウナで 倒れたりするようだから、そこからは、わたしの管轄する範疇じゃない。自分が生きるために、そのアドバイスをどう使うかが問題であって、死ぬ予定でいいん ですって言うのなら、止める権利もないからね。

これから飛び込む人の場合は、最後は、「解き放たれた感満載」の笑みでいることも多い。

その表情は、ある意味、ホラーである。脳裏に残るイメージでもある。しかし、当人が望むのなら、自殺も仕方ないんじゃないかと、最近は電車に乗る 時、そう思うようになってきた。これだけ、天候が悪いと飛び込み、気圧の変化で飛び込み、仕事の関係で飛び込み、妄想を背負って飛び込み、そこまでされる と、これもひとつの時代の流れかと思うことも多くなってきた。

当人は、当人だけ幸せでいればいいんだと思っているんだから、仕方ない。

ただ、病死に関しては、わたしも見ることができるけれど、ここは、自分もその境目なのか、「感情が入って良く見えない」ところである。

ある程度、ヤバいケースは見えるけれど、ヤバくないと見逃してしまうこともある。後、わたしが、自分が生き死にの繰り返しばかりなので、自分はこれ 位「生き延びて当たり前でしょう」の部分で、見逃すこともある。死が近くなると、人は勘が良くなる。自分の身の回りを整理したり、色々と始めるもんだ。

うちの父も、あれは不思議だなと生前は話していたけれど、彼は死に至る昏睡状態に陥る前の日、周囲に「ありがとう」を言ってお礼を述べていたと言う から、驚きである。恐らく、わたしも、その程度の勘があるが、「ありがとう」とお礼を述べる前に、わたしはどうしても、精神年齢が、ある時代に還ってしま うようで、周囲のことが分からなくなったりすることがある。もう、亡くなった人に会いに行くと言って家を出ようとして、鏡に映った自分が、BBAだったの を見て、愕然とした経験がある。

ただ、まだここにいるってことは、当分は死なないってことで、死なない程度に、ガチガチと噛まれるような生活を続けて行くのだろうと思う。

 

それで、こんな重いことばかりが見える人に、伝えたいことがある。

人の生き死には、人が決める権利がある。死の選択も、生の選択も。生の選択は、バースコントロールというけれど、わたしは、中絶した女性の子宮を見 たことがあるけれど、分かるのは、術後が悪くて、二度と子供は授からないだろうとか、まだ産める程度の事であり、子宮に取り憑くと言う「中絶した子供の赤 子霊」は見たことがない。

あれは、弱った心につけ込むビジネスだと思っている。でも、新しい生を授かれなくなったら、流石に心も折れて、風車のひとつも、失くした子に買ってやりたいと思うことがあるだろう。それが人情で、年相応の落ち着きである。

それで、そんなことが見えても、最後の結果の責任は、「あなたにはない」んだと、わたしは言いたい。

あなたは、オブラートに包んで、このことはしない方がいいと伝えても、あーだこーだ、うっとおしく伝えても、結果は相手が選ぶのである。それは、自ら決めた運命というモノであり、その人がそれで後悔がないのなら、それでいいんだよ。あなたが、負う責任はない。

でも、どうしても生きててほしい気持ちは誰にでもあるけれど、大事な人ほど、早いものだ。

往生際の悪い婆さんも、さっさとやりたいことをやって亡くなる婆さんも、魂の重さに関しちゃ、皆等しい。

大切な時間程、移ろいやすく、大切に思えば思う程、失うショックは大きくなる。でも、それが、生と死の普通のことだから、あなたは、そんなに悩む必要はないんだよ。死は、生を持って清められ、贖われる。だから、生まれる人がいるのも、亡くなる人がいるのも、

Good times & Bad Times なのさ。

 



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こんばんは。

わたしの母と父は、博物館が好きで、絵画鑑賞が好きで、彫刻とかも見に行く人だった。日本のどこにでも、わたしと兄を引っ張って、見に行った。特に、上野は聖地のようなもので、何かあったら、直ぐ上野。

正月前は、それに御徒町アメ横巡り。

父は、娘の手を引き、マグロを値切って楽しそうだった。わたしは、人ごみでゲロゲロして、お漏らししても、替えのパンツがあるからいいさ、の勢いで、練り歩いた。

わたしは、帰りには疲れて歩けなくなり、宇宙語を話し出しよく熱を出したので、父は、わたしを背中にオンブして、帰ってくれた。

帰って来て、お風呂屋さんに行く時は、寝ているわたしをオンブして、家族4人で、桶を持って、隣町まで出かけ、お風呂についたら、起こしてくれて、母と温まったら、また、父が担いで、家まで連れて帰ってくれた。

わたしは、そんな父親が好きで、背中が暖かかった。

分からない印象画を見るより、日展とか、油絵ばかりだっだ記憶もあるけれど、上野は、よく展示会をしてたので、出かけて、それが幼い頃の娯楽だった。

親は、決して子供用の商業施設に、連れてってくれることはなくて、動物園より、絵画鑑賞が多かった。近所の図書館で本を借りに行く週末も、父の後ろに乗って、自転車で行った。

眠ったようなわたしを、父がオンブしてた時、母はこう言った。

「この子は、パパの一生モノ」

父は、お嫁に行って欲しくないなぁって、言ったら、寝てたはずのわたしは、父に抱きついて、「パパのそばにずっといるよ。わたしから離れちゃダメだよ、パパ」そう言われた父は、嬉しそうな顔で泣いていたという。

 

時代は代わり、わたしは、母親になった。親の都合で振り回した事はなく、次男は、自分のやりたい事をやって疲れて、夜眠そうになりながら、「夕ご飯」屋で、舟を漕ぎながら、ご飯の後のパフェを食べている。

帰り道は、車で、次男は眠ったようで、あとは、駐車場から家まで歩くだけ。

舟を漕いでる次男を、主人がそっとオブったら、次男は幸せそうにとろけそうな顔をして背中にしがみ付いて、寝入った。そうか、今度は、わたしが言う番なのね。

「この子は、パパの一生モノ」

主人は、横に歩く長男の笑顔と背中の次男のぬくもりを感じて、愛おしそうなとろけそうな顔をして、泣きそうな笑い顔をした。

 

子どものわたしには見えなかった父の表情が、今やっと見れた気がする。

 

 

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こんばんは。

 

前に、自衛隊の医務官を行っていた医師もそうだったけれど、壮絶な修羅場を踏んでしまうと、人とはどうも、「ある二極化」に走りがちで、心のバラン スが取れないらしい。かつての、医療事故の後の自分も、修羅場の最中は、とかくバランスを崩しがちで、結局崩してみて、霊能者をやってみたけれど、内実 は、できたから、やっただけ。

修羅場や、人生史上初とも言えるような、土壇場のせめぎ合いを続けると、人間、まぁ、色々おかしなものを視るようにもなるし、多少なり勘もよくな る。精神的疲労や、肉体疲労が重なると、オカルト現象なんて、割とよく見ることが多くなる。それにプラスして、思春期独特のホルモンのバランスが乱れた状 態が加わると、もう、阿鼻叫喚だね。

そもそも、思春期・更年期は、「潔癖」と「穢れ」の中の釣り合いが、自分の中でも取れなくなるから、よく、ヒステリー状態になって、解離状態になる人は多いし、そんな状態だから、余計、なんか視えても、仕方ないんじゃないの。

でも、面白いのは、守られたゾーンで、「見える」ことは好きな大人も、守られないゾーンで「見える」ことには恐怖を抱く。

無論、怖い何かが起きたら、途端にメンタル破綻するような勢いで騒ぐね。お疲れなんだね。

 

わたしが、学生時代、親がどんなに厳しくても自宅に帰り、合法的な自宅の出方が、結婚だったのは、そもそも、わたし、すごく怖がりだから(苦笑)。

 

寝ている時に、音がしたり、あっちこっちで、モノが落ちたらね、普通はやっぱ、臨戦態勢になってしまう。だから、わたしは、独り暮らしをしたことがないし、子供がいなかった頃は、主人が長期出張の際には、もう、慌てて夜は早く寝た。それでも、なんとか暮らせるのは2日間。

だから、親元に帰ったり、逆に、それはどうなんだろうと今思うのは、職場に泊まったりしてたことかな。職場では、独り・・なんだけれど、警備員とかが必ず巡回に来てくれるので、個別にビジネスホテルを取ってもらった時の方が怖かったかな。

 

出張で、1週間、2週間、3週間とかになった時は、必ず、どこかで知り合いに遭うか、意味が分からないけれど、神社に行ったり、仏閣に行ったりとしてて、余程自分は怖いんだなと思ってたから、霊能者になって怖がりが防げるかと思ってたら、違ったんで、辞めた。

 

でも、修羅場や土壇場のせめぎ合いを越えて、そこをリタイアした後に、突き抜けるひと、結構多い。

突き抜けるって、悪い意味での話であって、カルト宗教にのめったり、spiritualに過剰にのめったり、なんか、色々なモノにすがったり、神に なっちゃったり、占い師になったりする人もいる。医師でもそれを押さえられないところを見ると、余程、修羅場耐性というのは、耐性がついても、まだ尚且 つ、人の心は、バランスを崩しやすいんだろうね。

前に、医者に先祖供養が効いたとか、カルテに書かれた時は、その医者とは、すぐに縁を切った。

 

やだね。幾ら、何が効いたところで、オカルトのような、割り切れないものは、まだこの世に沢山あるんだよ。でも、そこで、突き抜けてしまうひとにな るのか、そこでぐっと踏みこたえて、現実に生きていく軸を自分に保ち続けるのかでは、心のバランスや健全さが、かなり違うと思うんだ。

現実に生きてかなきゃいけないじゃん。金はなくちゃ生活できないし、食うもん食わずで、宗教やってたって、あんたの神なんて、どうせ、あんたを救わないって。知ってて、すがるんじゃなくて、あんたは、振り向いてもらえると、毒親にすがるような思いで、すがるんだろう。

毒親は変わらない。これは流石に、世の中のデファクトスタンダードとなったけれど、神も似たようなもんだよ。

あんたに加勢する奴の方が、多少なり、人間に近い、そういった類のもので、あんたは、それを信じることで、修羅場を抜けてきた、もしくは、修羅場から逃げたい気持ちを、現実逃避するんだろう。でも、現実は現実だぜ。

 

あんたが、辛かったのは、辛かったとわたしも思う。誰が聞いても理不尽な話だろうと思うね。でも、それで、あんたは、心のバランスを崩して、それで 終わりにするつもりかい?天使や、神に、あんたの生活の糧を与えたまえとは、祈りの文句にあるけれど、あれは、単に「いただきます」「ごちそうさま」レベ ルと考えておいた方がいいと思うよ。

天使や神は、あんたの生活の金まで面倒見ないし、あんたの老後の面倒も見てはくれないよ。

 

でも、あんたは、それでも救われたいと思うなら、一番痛い現実を見ることだね。怖いことや不可思議なことは、あって当たり前で、まだ解明されてない だけで、解明したら、なぁんだってことになるんだよ。その時、そんなことに振り回されて、怖がって、怯えて、余計な金使ってたら、ダメだろう。カルト宗教 はね、教祖だけが救われる為にあるんだよ。

 

警察官も、自衛隊も、医者も薬剤師も、看護婦も、そして、ITエンジニアも、色々な職業の人が、色々な現象を見て素直に驚くよ。

 

でも、それで、それに囚われて、足元をすくわれて、心のバランスを欠いてはいけないんだよ。

 

わたしは、拝金教だ。拝金教は、一番、大切な地道に働くということを教えてくれる。それが一番金が稼げた時代だったし、これからも、そんな状態でも あるだろうよ。幸せは、貧乏でも味わえるけれど、貧困では味わえない。現実を見て、現実をより良くするために、わたし達は生まれた訳で、突き抜けて、なん か、変な人になったら、アウトだよ。

 

わたしは、かつて、とても優秀な教授と奥様に、知り合いになった。教授はその当時世界的な権威で、優れた頭脳の持ち主で、彼をうならせるウィットを 考えるのがわたしは好きだった。しかし、どういう訳か、教授は、ニューエイジブームにはまって、奥さんは、一日8時間、瞑想することとなり、教授も段々そ うなるようになった。もう、いい年だから、余生は静かに過ごしてほしいと願うが、確かに、あまりに頭が良すぎて、理性的だと、「どこか、突き抜けて、心の バランスを崩すのかな」と、わたしの心に深いトラウマを残した方だった。

 

わたしの父は、そういうことに猛反対な人だったから、ある意味、彼は、わたしに、現実に軸を持って生き抜くことを教えてくれてた教育者だと思う。

 

まだ、この世には不思議は沢山ある。でも、それに惑わされているようでは、「心は健全だとは言えない」と思う。趣味程度に留めておいた方がいいとわたしは思う。妙な使命感や、義務感を主張し過ぎたら、わたしは、あなたを「心のバランスを崩しすぎたひと」だと思うと思う。

でもさ、霊能者やったわたしにそう思われたら、終わりじゃないの?

 

 




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