こんにちは。


奇妙な空間という話を災厄4で 話をしたが、奇妙な空間、奇妙な雰囲気というものも世の中にはある。

わたしは、それを読むのに長けていて、誰に尋ねてもそういうものがあるとは、知らなかった。

幼い頃から図書館で本を借りたり、色々な自治体の本を借りて読んだのだが、何もそれらしきことは載っていなかった。


奇妙な雰囲気が漂うひとには、死が訪れるとか、嫌なことがあるとか、何か、とてつもないことがあるのではないかと思っていたことについて調べていた。また、奇妙な空間は、今まで普通に見えていた人が、突然、その空間の中で壊れていく。そういう空間でもあった。その雰囲気が分かると、中身が見えない封筒の中身でも、内容が判断できることもあった。また、電話が鳴る時のあの嫌な感じで判断してきたものの理由が知りたかった。


少なくとも、今のところ、その奇妙な空間に関しては、どういう風にして現れるのかは分からないのだが、処理の方法は分かっている。

奇妙な空間は、恐ろしいほど寒く、冷え冷えとし、畏怖感や恐怖感を煽る情報がたくさんあるのである。沢山あるのだが、ひとは、ほとんどを視覚に頼っ て判断するので、視覚に写らないことに対して、いたずらに情報が増えていくと、恐怖感で破綻する。

案外、弱いものである。しかし、その空間のほとんどの情報は、自分に対して、何か良からぬことが起きるなという何かの警告が発されるのである。その直感による警告にて、思いっきり、雰囲気に飲み込まれてしまいがちな人は、あっという間に情報処理に失敗するのである。


情報処理に長けろというのが、処理の方法である。

まぁ、そんな簡単に言わないでくれと言いたくなる代物だが、普通の場所にはこういうものは存在 しない。明らかに、駅で自殺を防ぐための電車のドアとは別のドアがプラットフォームについているが、あれは、見た感じは威圧感があるだけである。奇妙な空 間というのは、そういうものではなく、ひたすら、己の中の恐怖心を煽られるか、ひたすら、いい気分になって、連れて行かれるかのどっちかである。


ひとは、通常、情報量が多い世の中でも、割と取捨選択して生きている。

けれど、この空間は別であり、この空間の中では、取捨選択の前に、何か底知れぬもの、つまり、可視光線では現れない何かがあるのだという印象が芽生え、その際、逃げられない何かを感じさせるのである。それが、「神」というものの正体なのかは、わたしは分からない。わたしの知る限りの、奇妙な雰囲気 というのを、わたしは総称して、「死神」とか「疫病神」と呼ぶことがある。


そばに行ってみれば、分かるもんである。死神かどうかどころか、家に祟っているものかどうかも割と分かりやすい。

ただ、わたしは、幼い頃から非常に情報量が多く、情報を拒めない状態で生きてきて、何度か情報過多で、疲れて熱を出したこともあった。自分なりに情 報量を取捨選択しようにも、取捨選択しようがない。何でも受け取れば、何でも受け取れる始末である。だから、若い頃は特に、その奇妙な空間や奇妙な雰囲気 に飲まれることが多かった。

父親はわたしに、情報を少なく受け取ることと、そして、情報を自らが選んで受け取ることを提案してきた。

わたしはそれからしばらく、自らが選んで受け取る情報ばかりで助かったのだが、風邪をひいたり健康を害すると、あっという間に、選んだ情報ではない情報の洪水に押し流されて、災厄の渦中へ巻き込まれていくばかりだった。


情報量が多い中で、情報量の多さと情報量の質(恐怖心を煽るとか嫌になりそうなことばかり)を選べずに、友人たちは、次々に亡くなったり、気が狂ったりして、そういう場によくい合わせてたわたしが、「死神」というあだ名をもらうことがあった。

わたしは、とにかく、情報を受け取っても、必要のない情報を読み流しすることを訓練し、人の中を歩いても、「死神の隙」だけが見えるように自分を訓練していっ た。それ故に、わたしは、実は目をつぶっても普通に、物に当たらず、歩行者の多い横断歩道を目的地まで歩いていくことができる。

通行量が多くて、しかも、スクランブルだったり、単純ではない横断歩道の場合は、ひとはまず、そこで、目で見てしまう。目で見れば、無理だと思い込 んでしまう。やる前に、諦めるのだ。人にぶつかることは、何も目をつぶらなくてもよく起きることだ。しかし、ひとはまず、そこで、見た情報によって、自分 で判断するのだ。


何も、気だけ見て、渡っていけば、人の隙をちょっちょっと渡ればいいだけの話である。


わたしは、五感から来る情報量が多すぎたので、あえてそこで行ったのが、視界を遮り、隙だけ読んで歩いていくことであった。親はわたしに変な歩 き方だと言ったけれど、わたしは、人からや、場から来る情報を読むのではなく、人からや場から来る情報の隙間を縫う読み方を自分で練習したのである。そんな理由で、19位の頃には、みんなが苦労して横断歩道が渡れない状態で、わたしはすいすいと渡ったり、気がつくと、いいもののところに自動的に行くように、自分 の情報の読み方を少しずつ変える訓練をしたのだ。


そもそも、奇妙な空間や、奇妙な雰囲気を読むことは、これは簡単なことであり、読める人が多いのは分かる。非常に分かりやすく、強いて言えば、大声 のようなものである。大声がすれば、誰でも驚くし、その大声が何を話しているかで、人は恐怖感か、警告か、それとも、自分が呼ばれているのか、大体判別が つく。災いは、比較的に読みやすい。大声だからである。


反対に、幸運は、比較的に読みにくい。何故なら小声であるから。しかし、これも、よくよく耳を澄ますと、鈴が鳴ったような、涼やかな音色なので、割 と判別がつきやすい。しかし、通常、こういう音がメインなわけではなく、大体音で考えると、まぁ、どうでもいいような他愛無いおしゃべりが、他方向から聞 こえてうるさいような状態である。


だから、余計に、そういう他愛ないおしゃべりや他愛ない自己中心的な考えの声に、引きずられやすい人は、確実に情報処理の仕方が悪い。場に飲み込ま れて、自分を失って上がってしまう人、場に飲み込まれて、いつも思わない行動をとる人、ひとのせいにしないで、自分の情報処理の仕方を磨くことだ。

場はどうせ、自己中心を上手にすり合わせるくらいしか他にない。自己中心をすり合わせないのであれば、場がしらけていることだろう。だから、そうい う人のエゴが嫌いだと言わずに、人のエゴをかわして、読み流すくらいの力量をつけなくては、結果的に、奇妙な雰囲気や、奇妙な空間に出会ったとき、簡単に 崩壊してしまうだろう。


あと、時々、サイコパスや支配したい人が使う術だが、言っている言葉に、暗にネガティブなイメージを写し取って話をするひとがいる。聞けば聞くほど ネガティブなイメージが刷り込まれ、結果的に、そのインプリンティングによって、災厄を起こしてしまうか、災厄に出会ってしまう人もいる。別名「暗示」と いう。一見、ありがたいお話なのかと思ったら、災厄にまみれるようになるような暗示まみれの話であったのはよくあることだ。

そこは、何でも聞きに行くのではなく、普通にこんなことがありえないお話のどこに、巧妙にネガティブな災厄にあなたが会いますよと暗示されているのか、そこを見抜かないと、そういう暗示に引っかかる人は、簡単に引っかかって、事故にあう。


特に、天地災害の場合は、防ぎようにも防ぎようがない。だからこそ、こういうことに乗じて巧みに、暗示をかける人が多いのだが、ここは気をつけたほ うがいいだろう。何故ならこれは、なんのことはない。この災厄から逃れるのは、暗示をかけることを言い放つひとから離れればいいだけのことである。これ は、人災であり、災厄を起こしてやろうという人の暗示に過ぎないからだ。


奇妙な雰囲気は、割とこんな暗示をかける人から出来上がってくるケースもあるので、人災として片付けるとすると、まぁ、多少はやむをえないかなと思 う。ひとは、基本的に、見えない状態で、受ける危機感に関して、敏感である。親にそういう人を持ち、言葉でずっとそっと、暗示をかけられて育つ子供もいる し、妻にそういう人を持ち、ずっとそういう言葉でがんじがらめになる人もいる。その暗示を解くのが大変なのだが、だからと言って、やった当人が変わるとは 到底思えない。「ネガティブな言葉の支配」と言うのは、どこででもあることである。だから、距離を置くことが一番大事だ。


こんな暗示で災厄まみれになるほうがどうかしている。

災厄をつくりし、暗示をかけるほうは、いい加減なものであるが、大体ある程度、そういう人だというレッテルが暗黙上で貼られると、これは、因果応報 となり、その人の言うことは誰もが信用しないようになる。だから、こういう人は、割と、その集団にはじめて入ってきた人に向けて、情熱が動く。割と社交的 なのかと思いきや、陰湿な面を備えているので、割と付き合いにくい。陰湿な人の語る陰湿な暗示なので、気持ちが悪いのだと言われたら、それはそれまでなの である。

さて、奇妙な空間は、時々、あまりに見えないので、神のご到来か、死神のご到来かと騒がれるのだが、なんとも、結局は、五感といいながら、視覚しか信じない人の情報処理の弱さが浮き彫りになると思う。それで、実は奇妙な空間は、凄く厳かな雰囲気がするのである。

だから、わたしは、好奇心で、その後を追って、いつも、ノコノコ出かけていって、ひどい目に遭うのである。

しかし、実はわたしは、家族と一緒であれば、厳かな気配がしただけで、あっという間に、隙をぬって、一目散に逃げだしていく。


厳かだからか、やっぱり、よく目立つし、なんか非常に気になる。

 


ゆうれい談 (MF文庫)
山岸 凉子
メディアファクトリー
2002-08