こんにちは。
誰もが心の中で不条理を唱える。理不尽だと唱える。選択の余地のない状態に追い込まれるとこのようにみんな唱え始める。
だけれど、災厄とは基本的に、不条理で理不尽なものだ。
その不条理で理不尽なものを説き伏せたいと思うのなら、身の回りの不条理や理不尽を、自分でどう捉えるのか考えてみて欲しいと思うことがある。身の回りには沢山ある。ネタには事を欠かない。だけれど、誰もが、不条理や理不尽を片付けるのに、「賞讃」を求めたがる。
賞讃がなければ、不条理や理不尽に戦いにいけないのか。
まるでそれでは、不条理や理不尽は、中世の「ドラゴン」のようなものではないか。
若い男は、人からの賞讃を得る為に、ドラゴンに戦いを挑む為に旅をし、結局、若い男は旅の中で、悟るのだ。ドラゴンは、自分の中にいるのだと。
どこの世の中も同じ事で、ヨーロッパへ渡っても、アジアへ渡っても、そういう思想がある。昔は、真理はどこにあるのかを訪ね歩いた人間が、やっと 知ったことは、真理は身の回りにあったのだと気がつき、戻ってきて若い者に、教えを解く。
いつもいつも、そのエンドレスドラマが、続けられているのは、ひ とえに、賞讃を浴びたい人が、いつの世もいると言うことと、そして、結局、騒いだ挙句、身の回りにあることや、自分の中が大事なんだと気がつく。
それ程、賞讃を浴びることは、人間の捨てきれない過程のひとつなのだ。
だから、みんな、何か新しいことはないか新しいことはないか、常にアンテナを張って、人の動向を見守る。
でも、真実は、ひとつしかない。身の回りの不条理を解き放ち、身の回りの理不尽を解放そうと考える。だけれど、生育環境は選べない。遺伝子は選べな い。およそ、同じところからスタートしたように見えて、少しずつ、伸びていく方には差が出てくる。差が出てくれば、必ず、優位に立ちたい人が、支配的な意 味をこめて、恐怖の暗示をかける。「お前は成功してはいけないんだ」「あなたは、こういうひとだから、これが幸せだ。」
しかし、自分に打ち勝つとき、勝ち抜ける人はどうやって勝ち抜いているかと言うと、自分の中に、ビジョンを持っている。
集中して、ことに当たるときにイメージをするのだが、明確であればあるほうが好ましいが、残念ながら、あまりに詳細すぎると、修正が効かなくなる。 それと、多少手が届きやすいビジョンである必要がある。運がどこまで続くかわからないのだから、手に届きやすくなくては、挫折感で人は折れてしまう。しか も、過去に仕掛けられた陰湿な失敗するぞと言う暗示には、負けてはならないのだ。
そもそも、失敗したらどうしよう、失敗したらどうしようと思えば思うほど、失敗するものである。
そういう思考の持ち主は、得てして、完璧主義が多い。自分に失敗を許さぬものは、他者の失敗にもとても厳しく当たる。だけれど、失敗はつき物である。失敗から人は多くを学び、多くを悟り、理不尽の出来上がった構成理由を見る。振り返らぬ者は、愚か者である。
そして、ビジョンはいつの時代でも、誰の心の中でも、失敗によって、「美しく」磨かれる。
磨かれることが多ければ、余計に光るだろう。磨かれることが多いと言うことは、卓越した成功者には、人には見せないけれど、とても失敗が多いと言う ことだ。振り返って失敗した現象にだけ囚われても意味がない。全ては、どうして失敗したのかの原因追求の為にある。失敗を恐れてはいけない。失敗は、玉を 磨く大切な試練なのだ。
だから、失敗したらどうしようではなく、「成功して、喜びに満ち溢れた状態をイメージしなさい」と、昔からどの宗教でも必ず教えるではないか。あれは、 それだけ、陰湿な暗示をかける人や、失敗で過去に苦労してきた先人たちが残した名案である。成功哲学と言うものは、いつだって、理不尽を突き抜けて、解消 し、昇華してしまった人が語る。
でも、いつでも、まるで、判を押すかのごとく、皆同じ事を言うではないか。
何故なら、結局、どんな状態にあったとしても、それが自分のライフセーバーだからなのだ。どんな修羅場に立とうと、どんな苦しみを背負おうと、明けない夜はない。空ける前の空は、必ず、絶望するくらい暗くなる。そして、日の出がくるのだ。だから、日の出を待つのだ。
自分の心の中の弱さに打ち勝て。目先の利益を取って楽な方向にばかり流されてきた自分を認め、その自分が選択してできてしまった現実を受け入れるの だ。どんな時でも、誰にでも、その弱さがある。どんな超人でも、どんな聖人でも、必ずその弱さがあり、彼らはそれを乗り越えてきた中で、気がつくのだ。
陰湿な暗示に負けない強力な自分自身を作るために、神がいるのだと。
神は決して、あなたを助けない。あなたがどんなに苦しくても、どんなに嘆いても、神はあなたを助けない。では、どうしたらいいのかは、昔から分かっ ていることだ。神に頼る前に、自らを鍛えよと。隣人に助けを乞う前に、出来る策を皆やり通せと。分からなかったら、知る努力をせよと。
昔から、昔から、悠久の時の中で、神はただそこにいるだけである。彼にとっての0.1秒は、あなたの人生が始まって終わるより、遅いかもしれない。
もし、そうだとしたら、神があなたに気づくはずはない。
気づくのは、あなたが残してきた業績である。あなたと、あなたの周りが残した過去から続く未来である。
理不尽な事実や不条理な事実は、自分のせいではなくても訪れるイベントで、だからこそ、人は嘆く。無力な自分を嘆き悲しむ。だが、だからといって、 進まぬ道は、死に値する。人は進んでこそ、未来へと繋がっていく。どんなに悲しい出来事が、過去のある日にあったとしても、きっと笑顔で、みんなのところ に戻れる日が必ず来る。
そして、その時、そのみんなだと思っていた人たちの、あまりの空虚さに驚く時でもある。
恵まれた人は、空虚である。言う事が重みがないのは当然であり、過去のある日のあなたを捨てて逃げ出した人でもある。だから、あなたは、そこへ帰る のであれば、あなたが見捨てない人になればいい。あなたがそういう姿勢なら、きっと、あなたに続く人は、人を見捨てない人になる。
けれど、依存させるのは、禁物である。あくまで、あくまで、当人の自立に向けて、見捨てない程度に助ければいい。
それで、進まぬ道を歩むものはやがて、自然淘汰となる。これは、悲しいことだが、動物の世界でも、植物の世界でも同じことである。生きとし生けるも のの、一生懸命生きる力が、世の中には残っていく。そして、世の中は、少しだけ、いびつになる。何故かと言えば、一生懸命生きる人だけが生き残っても、世 の中は、中庸ではないのだ。
足を止める人も、進む人も、何にも出会わぬ人も、全てがそろっての中庸である。
だから、不条理や理不尽は、己の中のドラゴンである。
そして、自分を持たぬ者こそ、災厄に襲われやすい。災厄は、自身を持たぬ者と非常によく似た類友である。あなたの人生が進めば、今まで出会った災厄とは中々遭うこともかなわなくなる。しかし、進めばまた新たな災厄がある。
災厄は公平にやってくる。得るもの得られないもの、その表裏一体の中で、心の隙を狙ってやってくる。
朋