セレンディピティ~恋人たちのニューヨーク~ [DVD]
ジョン・キューザック
ショウゲート
2006-06-23

セレンディピティとは:
ふとした偶然をきっかけにひらめきを得、幸運をつかみ取る能力(WIKIPEDIA)

こんにちは。


何で隣の席のあの子には、奇跡が訪れたのに、自分には来ないんだろうと思っているそこの「輩」。

 

同じことを、数年前では考えていたよ。でも考え終わってみて、分かったんだ。

同じからだの作りじゃないからこそ、同じ条件では奇跡が同じようには起きないのである。そもそも、そこが、最低の勉強ラインとなる。

 

同じように勉強して、同じようにテストに挑んでみても、駄目なやつは駄目なもんである。出来るやつの脳みそを出来れば、洗ってみたい気分になるの は、誰もが同じである。だが、出来るやつの脳みそには、そもそも、全然関係ないものが、うまく結びつく「発想」というものがある。

ちなみに、わたしは、電話番号とか、数字に異様に強く、これは、そもそも、何度もここのブログで書いているが、発想がお下品な状態で、覚えているの である。だから、電話番号では、末尾の四桁に大体、お店をやっている人は癖のある番号を取り付けたがる。誰も何も考えなしに電話しているその電話番号は、 相手さんは苦心して、あなたの心に残るように、029(おにく)や、1188(いいパパ、いい母)等、色々つけているものである。

そこを気にしない人は、やっぱり気にしないので、単なる数字の羅列を覚えるのは厳しいと思うと思う。

よく、音階に色がついていると表現する人も居るし、わたしのように、数字の羅列に、一抹の言語性を感じる人も居る。だからこそ、面白いのであるが、 同じ学問での戦闘現場においた場合、画一的な試験問題がどれだけ良く解けるかにて、判断されていくのは、仕方がないことである。

そもそも、心理試験とは、戦争に男を駆り出す時に、手っ取り早く、数十分程度の試験で、戦場でいきなり発狂して、自分たちの背後を打ち抜く可能性の ある奴を出来る限り排除しようとして、改良が進んだものである。だから、かなり、状況的には、逼迫した背景があっての伸びなので、割と、その都度その都度 改良点がある。つまり、パターン認識が強くて、思考能力に劣るものだけをピックアップするときは、単体戦にて、ひどく手痛い敗北を得ることになる。反対 に、集団戦のときはどうか、色々組み合わせて考えるので、ピックアップに漏れたからといって、どうしようもないクズであるという理由ではないのだ。

ところが、常に女は強い男が好きであり、弱い男は嫌いなものである。

強い男が甘えてくる分には、2回位は愚痴も聞く。けれど、それ以上男が、甘えてくるのを許さないのが女性である。そもそも、これだけ強い女性であっ ても、中には弱さをこらえて強さを演じる人もいるし、弱いと思い込んでいるが、実は滅茶苦茶タフである等、女性の中の認識も様々である。

 

そんな中で、その女性だって、美しくなるときが、人によって本当に変わる。

 

それこそ、幼少時に美しさを使い果たしてしまう人もいれば、若い頃に美人になったり、おばさんになって美人になったり、なんと、BBAになってか ら、美人になる人もいる。これも、天性の要素が加わるのと、そもそも、性質なので、BBAから美人になった人は、正直自分に戸惑う人も多いし、なぜかそこ ではじけてしまう人も多い。生理があがってしまってから美しくなった人の乱れ方は、凄惨である。こっちが軽くドンびく位である。

その時期と言うものがいつ来るのかというのは、全く分からないし、子育てをしている20代の女性は、よく老け込んだと自分を評するが、意外と、40 代になって子育てがひと段落すると、老け込んだのがあっという間に、どこの女かと思うように変貌してしまう。努力努力と言うが、一心不乱に、クリームを塗 りたくって防御してた女より、すべてを捨ててから、すべてを得た人は、凄く強い。

失うことを知った女は、後は補えばいいだけなので、強いのである。

人間一番弱いのは、失うことを恐れることである。この防衛戦が、一番人間を駄目にするのではないか。常に挑戦し続ける気合がないと、人間、衰えるのは早い。

 

防衛線は、どんなところにでも張り巡らされ、女は、生まれたときから、死ぬまで戦いである。それも、男をめぐって争うならかわいいものである。通常は、おんどれのプライドを賭けて戦うので、ここが、なんともどうしようもない程、女性上司は、男性上司以上に嫌われる。

プライドが高すぎる人ほど、それを折られることに対し恐怖心を抱く。けれど、プライドは折られてナンボである。なんなら、そこの男の靴をなめましょ うか?と嫣然と微笑める人は少ない。だけれど、よく考えてみて。その鉄壁のプライド故に、折れられない心は、どこから来るんだろうか。内面から来るコンプ レックスか、外見から来るコンプレックスか、努力をしないコンプレックスか。果てさて、単なるヒステリーか。

誰にでも、大体は平等に辛い思い出はあるものである。だけれど、それを乗り越えるのは、怒涛の努力だけでは出来ない。ほんの少しの「たまたま」がな いと、努力だけでは乗り越えられないのである。そもそも、前に載せたナタリアというモデルの話があったが、ナタリアは、貧困の中野菜売りをしていてスカウ トされた。

容姿がいい女の子は、割とロシアに多い。

それが、たまたま、スカウトマンが声をかけたのは、ナタリアであった。別にナタリアである必要性などスカウトマンの心にはなく、ナタリアの心が綺麗 であろうと醜かろうと、そんなのは全く関係ない。彼らの思惑は、彼らに従順な表現者であればいいのだから、彼らにしてみたら、殆ど単なる気まぐれで拾った 猫のようなものである。

だけれど、そのたまたま拾われたことを、ナタリアは、最大限生かそうとして生きた。ただそれだけのことである。

んじゃ、ナタリアみたいに、たまたまが来ない人はどうしたらいいの?と聞かれると思う。

あなたには、本当にまだ「たまたま」が訪れていないと、自分ではっきり主張できるだけのことはあるか。本当に自分は恵まれていないと、大見得切って言えるか。

もし、それが言える人は、かわいそうな人である。得られるものに対して、何も意を感じず、得られないものにのみ、飢餓感を働かせる。永遠の餓鬼であ る。空腹で、空腹で、満たされない腹を、いつまでも、食べ物をあさって満たそうとする餓鬼である。そのあなたが、今まで生きてきたのは、そして今いる場所 は、少なくとも努力せずに得られた「たまたま」である。

 

たまたまは、努力して得るものではない。努力せずに得られるからこそ、得がたいのであって、気づきにくい。

 

ちなみに、わたしは、たまたま顔が小さい。たまたま、手も小さい。たまたま、足も小さい。顔が小さいことで、貧弱に見える服装も避けてきたし、だか らこそ、人から羨まれる点はあるが、手が小さいことで苦労し、足が小さいことで苦労し、そもそも、こういう末端が小さくなる癖を作った「心臓病」に大きく 問題がある。そして、自分の容姿を嫌って、拒食過食をしても、「たまたま」腎臓が強かった。ただそれだけのことだ。

それでも、わたしは、自分の腎臓があったこその命だと思っている。全く分からないものだけれど、ありがたさはひとしおである。

 

だけれど、あなたが感じる「精神的飢餓感」は、恐らくあなたを真正面から受け止める人がいないからだと思う。

 

真正面から受け止めてもらえる人を探すのではなく、まず、あなた自身が真正面から自分に向き合わなければ、精神的飢餓感など癒せるものか。

 

だから、そのチャンスも、「たまたま」なんだよ。

今やろうと思った人も、「たまたま」。嫌だから今度、と思った人も、「たまたま」。明日にしようと思った人も、「たまたま」。

 

奇跡はこんな感じで訪れるので、別に心が清かろうと、汚かろうと、なんだろうと、やってくる。それを上手に扱う人が、上に上がるのであって、そ れを上手に受け止めない人が、下がるんだ。奇跡の立場からしてみたら、文句を言う奴も文句を言わない奴も、別に、「たまたま」であろうよ。