超常現象の科学 なぜ人は幽霊が見えるのか
正面から見て、ある程度の周囲は、カラーでも、それ以上はモノクロに見えると言う。今のわたしには、全方向、全周囲、カラーに見えるんだと、最近気が付いた。
文藝春秋

こんにちは。

 

ある異変があった。でも、それを使用している機械が、そもそも、そういう仕様なんだろうなとは思えないけれど、ある時、誰もそれを「仕様である」と思いこもうとして努力している時に、長男が言った。

「さっきから、音楽のボリュームが、上がったり下がったりしているけれど、なにをいじったの?」

 

うーん。わたしも分からないんだけれど、ただ、アンプにつないでいるだけなのに、上がったり下がったりしている。おかしいというより、耳障りなんだけれど、これも仕様なんだと、正常にいつも同じボリュームに聞くことはできないんだと考え込もうとしている矢先だった。

丁度、うちに来てくださっている人も、かねてよりその異常に対して不安感を持っていて、だけれど、誰も何も言わなかったし、疑問だと思わないようにしていた。

でも、そんなこと考えたら、幾つでもある。

誰もいない部屋の、誰も出入りしていないところで、音がして。服をかけておいてないのに、服がハンガーにかかっていたり。それで、色々と話になったのだけれど、わたしは、なんか、そういうことまで、「あるべき姿に整えるのは嫌だ」と告げた。

わたしの父は、物理博士だったけれど、若い頃から占いを調べるなど、割と迷信的なモノが好きな人だった。好きというより、彼氏の身に降りかかる不条 理の理由を調べようとして、占いに手を出したのだろうと思う。その時、父、大学生。恐らく手に取ったのは、算命学であり、他に、九星気学等も嗜んだ。

しかし、父に出たのは、「不条理が続く」だけであり、結局父は、占いは、将来を変えるツールにならないので、意味がないと言うようになった。

 

わたしは、幼い頃から、眉村卓等を読んで超能力者になりたいと思った。時間軸を歩き回ったり、テレポーテーションとか、様々なことがやりたいと考えていた。しかし、中学や高校の時はそんな感じもなく、ただの「透視」ができるひとだった。

でも、最近少しずつ気が付いたのは、自分が人を見て見えるビジョンがダブっていたら、将来この人はこう変わるんだろうという、確固たる確信が持て た。なので、ビジョンについて、ダブって見えたものが、「いいこと」だったら、これは相手に話さないでおこうと思った。その理由は、話してしまうと、「ビ ジョンが変わってしまう」からである。

いいことだったら、話さない。わたしのジンクスにも、「何かしたいと思う時は、ひとに願いが叶うまで話さない」という事がある。だから、絶対に、人 のいいことも、自分のいいことも話さない。話したとしても、抽象的に、どんな解釈を着けてもいいように話す。相手が、そのビジョンを壊さないように話す。

 

中年になって、大きな病気をして、死ぬような目に幾つかあってきた中で、勘は冴えわたり、人の事もかなり見えるようになったけれど、人が話してもい いような雰囲気にならなかったら、絶対にその話をしないこととした。受け入れてもらえる雰囲気がなかったらダメだし、受け入れてもらうどころか、依存症に なりそうな時は、言わない。でも、時々、ご神託の様に話し出してしまう癖はある。

遠い向こうを見ることも、気配を感じることもできるようになった。

 

しかし、わたしは、仕事上でパソコンを見る時以外は、メガネをはずして、目を使わないようにした。

 

目を使えば、目に集中力が行ってしまうので、音が聞こえなくなる。元々聴覚が異常に音域が幅広く聞こえるので、色々な音を拾う。音は色々な色になってわたしの前に、まるでセルロイドの色紙を挟んだように見せてくれる。大変不便だと思うようになった。

幸せや、嬉しい音は、「小さな音で高い音でしか聞こえない。」災害は「低い大声で聞こえる」事ゆえ、聞きもらさないようにしようと、眼鏡をはずして、目に集中しないようにしているのか、もしくは、見ないようにした。文字通り、物理的に無頓着になろうとしたのである。

 

透視も、黒い箱の中にあるモノは、隠されても見えるけれど、白い箱の中は見えない。恐らく白の箱で、光が弾かれるからではないかと思ったりもする。しかし、現実面で、わたしが見えている色は、所謂「常識」と言われる概念では、ちょっと違う事にも気が付いてきた。

わたしは、日常の中で独特のこだわりを持つ。例えば、消しゴムは、「mono消しゴム」以外は嫌なのである。

理由は、わたしはモノを色で認識しているので、形で認識していない。なので、消しゴムは、「青と白」であるということで使っているが、これが、香り 消しゴムだとすると、手に取って消そうとした段階で、鼻に匂いが来たら、食べ物だと考えておいてしまう事や、間違って口に入れてしまう事もある。

他にもめんどくさい点はある。ティッシュペーパーの箱が青だったら、青で探すので、目の前にあっても気が付かない。形状や形を見てはいないのは、 「情報量が過多にならないよう」自分でコントロールしているせいである。箱の色が変わったら、箱の色が変わったことを覚えなおす。

なので、こだわりが半端ない面もあるし、石の中に見える情景がある時もある。そういう時、中々人に理解を貰えないけれど、自分が見える情景があるの は確かである。絵を描くのは、ヘタウマでも、色を塗るのは大変な苦行である。例えば、画家の母が見える色を、わたしの目で見える色で、パレットに調合する のは、わたしにとって遥かに難しい事なのである。

ここから、石でもただ買わされるだけでは満足しないのは、自分なりにこだわりの色があるからなのだろうと思う。後、人に会う石を見立てる事ができるのや、石に異常なこだわりがあるのは、恐らくその中に見えるものがあるからだろうと思う。

他人と話す時、時々、後ろの人があれこれ言う時がある。それを聞きたくない時は、眼鏡をかけて目の方に集中力を増やして、耳の情報を少し落とし、あ えて聞きたい時は、メガネをはずして耳の情報を多くする。わたしは、人に対してあまりいい人間ではないので、後ろの人のアドバイスなんかを聞いて踊らされ て、話したがることはないけれど、話さなきゃいけない時だけ、話すことはある。

 

ところで、自分って「発達障害だよね」と言う時があるが、「発達しすぎた障害」とか、「人類全員が発達障害だ」と言われることもある。

人間って、本当に画一的にできていなくて、だからこそ、事象の受け止め方がかなり違う面や、性質、性癖がかなり違うように、人生の中でできてしまうのも仕方がないんじゃないかと思う事がある。

自分の見え方が普通と違うので、どうにかしてくださいとすがる人もいるが、「デフォルトだと思えば、それでいいのだ」と最近思っている。あなたの家 に幽霊がいても、凄く、健康を損ねなければ問題ないし、健康を損ねるのなら、何かした方がいい。でも、「いつも悪口しか言わないモノが見える」時は、病気 を疑ったほうがいい。

わたしに聞こえるものは、「今や、今が銭の稼ぎどきなんや!」という声(笑)なので、この声に踊らされ過ぎて、仕事をし過ぎたけらいがある。確かに、今月の給料は、ボーナスを含めて多かった。

だから、あなたが周りとは違う傾向を持っていても、それを上手に生かすように回していく努力をしないと、パレットに、他人が見えた色を作れない時のわたしと同じように、苦しむこととなる。

 

PS:誤解のないように言っておくと、赤と緑の区別はできる。しかし、黒と緑の区別が多少つきにくく、昔からコピーしてくれと言われて渡された書類 が、深緑色に見えるので、カラーコピーでコピーしたら、「大変な損害だ」と怒られたことがある。多少なり、霊能で使う色が、黒なのに深緑色に見えてコピー しても、同じ色にならず、苦労したことがあった。

あと、赤と紅の色の区別はつく。紺と黒の区別はつく。黒の色の違いは、明暗のコントラストで見ているので、素材や質感などはわかる。

若い時、色弱かと思ったが、違った。眼科で検査して貰ったら、めんどくさい眼鏡を作る羽目になり、そのメガネだと、「一般人と同じに見える」という。けれど、わたしには、バランスが取れない眼鏡となり、結局かけていない。

モノの見方が違うだけで、幽霊を勘違いしているのかと思ったが、幽霊からは生体反応が出ないので、それはそれで、コントラストなどの見方をしていれば、分かることは多いし、当たることしかない。


よくわかる色彩の科学 (図解雑学)
永田 泰弘/三ツ塚 由貴子
ナツメ社
2007-07-10