喜びから人生を生きる! ―臨死体験が教えてくれたこと
アニータ・ムアジャーニ
ナチュラルスピリット
2013-06-18(死にかけたことを、そんなにあからさまに喜ぶなよ)。

こんにちは。


コンテンツとして割り切ってできないで、語りたがる「臨死体験者」の臨死体験は、あれは、PTSDの表現の一種じゃないでしょうか。

あれで、昔、覚醒したとか考えていたことがあった自分は苦笑せざるを得ない哀れな中二病でしたが、PTSDだったのではないかと思うのです。

 

今じゃ、幾ら死んでも、ターミネーターとして蘇ってくる術を身に着けましたが、昔は、それで自分がなんだか、変わったような気がして、誰かにその事実を知っててほしいPTSDだったのではないかと思うのです。

 

大病を患う人は多いんです。わたしの父も大病を患い、彼の直観力は凄まじかったですからね。

 

でも、それでも、わたしの父は、執着を捨てることができなかったことがありました。

 

修羅場を掻い潜っても、何故かやってしまう事など、父にもわたしにもあります。それで、始めのころは、自分が自分ではないような気がしていました。 でも、今になって思うと、あれは、PTSDだったのではないかと。霊能者になりたいと思ったのも、この凄まじい体験が誰かに役に立てればよかったと思った のだと思うのですが、よく考えると、随分、一生懸命生き延びた術が、「人の強欲」の為に利用されるばかりで、本当に嫌になりました。

 

だったら、スポンサーなどいらないし、ひっそり書いてりゃいいやって思うようになりました。

 

そう考えたら、PTSDを超えたのではないかと思うのですよ。

 

臨死体験者は、結局は、その凄まじい神々しい場面を見ざるを得ない状態に追い込まれるような体の不調があり、その後も予後がなかなかよくなりませ ん。それが、あまりにつらい経験過ぎて、誰かに吐露したくなるのではないか、だから、あんなに、臨死体験のセッションを開いて、死は怖くないと訴えるので はないでしょうか。

 

臨死体験者の死が怖くないという言い分は、わたしには嘘に聞こえます。

 

やりたいこと、やったもん勝ちで、好き勝手生きていく人の寿命はいつも短いですよね。結構有名な人、延命すれば幾らでも生きそうなのに、割と高齢社会に反するように亡くなりますよね。病床の身でも、やりたいことをやりつくせれば、きっと執着を捨てられる。

そうなれれば、きっと死は怖くなくなると思うんですよ。

 

むしろ、生きているほうが地獄に思えるんじゃないですか?

なんか・・・・こう・・・・・・ネタ尽きました・・・感満載な感じで。いつ、ギブでいいですかね?みたいなノリで。なんか、ほとんど全部やっちゃった・・・みたいな。

 

臨死体験者の本当の本音は、孤独な心の闇の叫びのように思えるんです。それ程、怖かったんだと思いますし、吐露し続けていなくちゃ、生きている感がしないのでしょうしね。無茶し続けなくては、寂しいのでしょうし。

 

わたし・・・・わたしはなぁ。

なんか、生きててくれとか主人に言われるけれど、仕事がドツボった時ほど、「もう、無理、やり尽しました。今夜昇天でお願いします。」な勢いになりますよね。

ブラック企業に疲れた人が、朝飛び込むのも、あれも、死と生き続けるのとどちらかを天秤に乗せた時、ブラックの中で、生きていくことを精いっぱいや り遂げたからではないかと思う時もあるんです。天命でいいんだなって思う時もあるんですよ。ブラック企業辞めたって、ブラックばかりでしょ?転職癖がつけ ばつくほど、値段が下がるでしょ?そしたら、結局、選択肢は楽な方ばかり選んできたけれど、清々しい朝に、「うん、やり尽した」って思って死ぬんじゃない でしょうかね。

まぁ、ちゃんと60超えるまで、人並みに耐えていただきたいと思いますがね。人並み以上に耐えた人のご褒美が、短命ではないかと。わたしは、積極的にこれを享受したい。

 

死んで花実が咲くものかとは言いますが、どっちみち、どんな立派な人のことも、数十年、数百年経ったら、誰も覚えてもいないし知りもしない。

人生を、自己満足できるほど、謳歌できたかどうかが問題でね。それが、大事なんじゃないですか。

自殺はそれがないので、咎められるんですよ。

 

それじゃ、どうやって満足したらいいのか。だからこそ、生きるって難しいのですわ。

 

 

 

参考文献:急死と臨死体験