こんにちは。


普通外見から分からないモノを、見るのに何が得意分野ですか?という話をたまに貰う。

まぁ、見ることはしちゃいけないけれど、ブロックしていても見えるのは、生と死。特に、女性の子宮は、我ながらに情けないことながら、「生理中」かどうかを見るのに長けていた時期があった。

生理中かどうかを見るのに長けた理由は、相手がトイレに頻回に行きたくなった際に、なるべく阻害しない店を選ぼうと言う、「余計なお世話(笑)」か らである。およそ、100%当たるので、嫌な顔もされる。しかし、神様はご清浄なモノが好きで、生理の血は嫌いだと言う説もあるが、古代より、死は生を 持って清められてきたと考えるので、そんなこともないだろうと思う。

未だ、女性の子宮から湧き出でてくる、「生」を見るのは得意だけれど、残念ながら、授かる予定なのに、授からないケースも多々ある。

理由は、その家族に何か大きな不幸があった時、大体は、その小さな命が、文字通り体を張って食い止めるからである。だから、流産して悲しみに暮れて いる人の中で、流産して実はよかったと思えることもある。ただ、余りに悲しくて心を閉ざす前に、何度か、流産癖を防止してでも、命を授かると、母体のメン タルは、保たれる。他に子供がいる時は、その子供を大事にしてあげることが必要なんだろうと思う。

ってところで、死も割とよく見える。

死ぬ人の後ろは暗く、未来が見えない。

基本的に、死んだ顔が見える時は、当人にそれとなく、「食べ物に気を付けて節制しろ。」とか、「酒を飲むな」とか、「高いところに上るな」とか、暗 示を込めた言葉を言う事がある。食べ物系は、それこそ、食べ過ぎで亡くなることもあれば、中ることもある。死の原因の顔を見ていると、高いところから飛び 降りそうだとか、遠いところで、野垂れ死にするんだなとか、そんなことが、大体はぼんやり分かる。

普通の霊能者は、こんなことを言わないし、伝えてはならないと言う。

わたしも、幼い頃から父の早世を気にしていたので、死ということばではない言葉で、相手に伝える術を考えていたのだろうと思う。死というと、大体の 人は、それが発言力のある人であればある程、暗示がかかって、そっちへ歯止めが効かなくなるものであり、死ななくてもいい人が亡くなるケースもある。だけ れど、食事の塩分で亡くなるとか、脱水とか、そんなところは、大体オブラートに包んで、相手に伝えればいいと考えている。

ただ、これで、昔は、死ぬ予定の人を死なせなかったので、返りの矢というものがきて、代償を払わされることになったことがあった。

けれど、最近はそうでもない。死ぬ予定の人は、「食べ物に気を付けろ」と言っても、やっぱり過食するし、「脱水に気を付けろ」と言っても、サウナで 倒れたりするようだから、そこからは、わたしの管轄する範疇じゃない。自分が生きるために、そのアドバイスをどう使うかが問題であって、死ぬ予定でいいん ですって言うのなら、止める権利もないからね。

これから飛び込む人の場合は、最後は、「解き放たれた感満載」の笑みでいることも多い。

その表情は、ある意味、ホラーである。脳裏に残るイメージでもある。しかし、当人が望むのなら、自殺も仕方ないんじゃないかと、最近は電車に乗る 時、そう思うようになってきた。これだけ、天候が悪いと飛び込み、気圧の変化で飛び込み、仕事の関係で飛び込み、妄想を背負って飛び込み、そこまでされる と、これもひとつの時代の流れかと思うことも多くなってきた。

当人は、当人だけ幸せでいればいいんだと思っているんだから、仕方ない。

ただ、病死に関しては、わたしも見ることができるけれど、ここは、自分もその境目なのか、「感情が入って良く見えない」ところである。

ある程度、ヤバいケースは見えるけれど、ヤバくないと見逃してしまうこともある。後、わたしが、自分が生き死にの繰り返しばかりなので、自分はこれ 位「生き延びて当たり前でしょう」の部分で、見逃すこともある。死が近くなると、人は勘が良くなる。自分の身の回りを整理したり、色々と始めるもんだ。

うちの父も、あれは不思議だなと生前は話していたけれど、彼は死に至る昏睡状態に陥る前の日、周囲に「ありがとう」を言ってお礼を述べていたと言う から、驚きである。恐らく、わたしも、その程度の勘があるが、「ありがとう」とお礼を述べる前に、わたしはどうしても、精神年齢が、ある時代に還ってしま うようで、周囲のことが分からなくなったりすることがある。もう、亡くなった人に会いに行くと言って家を出ようとして、鏡に映った自分が、BBAだったの を見て、愕然とした経験がある。

ただ、まだここにいるってことは、当分は死なないってことで、死なない程度に、ガチガチと噛まれるような生活を続けて行くのだろうと思う。

 

それで、こんな重いことばかりが見える人に、伝えたいことがある。

人の生き死には、人が決める権利がある。死の選択も、生の選択も。生の選択は、バースコントロールというけれど、わたしは、中絶した女性の子宮を見 たことがあるけれど、分かるのは、術後が悪くて、二度と子供は授からないだろうとか、まだ産める程度の事であり、子宮に取り憑くと言う「中絶した子供の赤 子霊」は見たことがない。

あれは、弱った心につけ込むビジネスだと思っている。でも、新しい生を授かれなくなったら、流石に心も折れて、風車のひとつも、失くした子に買ってやりたいと思うことがあるだろう。それが人情で、年相応の落ち着きである。

それで、そんなことが見えても、最後の結果の責任は、「あなたにはない」んだと、わたしは言いたい。

あなたは、オブラートに包んで、このことはしない方がいいと伝えても、あーだこーだ、うっとおしく伝えても、結果は相手が選ぶのである。それは、自ら決めた運命というモノであり、その人がそれで後悔がないのなら、それでいいんだよ。あなたが、負う責任はない。

でも、どうしても生きててほしい気持ちは誰にでもあるけれど、大事な人ほど、早いものだ。

往生際の悪い婆さんも、さっさとやりたいことをやって亡くなる婆さんも、魂の重さに関しちゃ、皆等しい。

大切な時間程、移ろいやすく、大切に思えば思う程、失うショックは大きくなる。でも、それが、生と死の普通のことだから、あなたは、そんなに悩む必要はないんだよ。死は、生を持って清められ、贖われる。だから、生まれる人がいるのも、亡くなる人がいるのも、

Good times & Bad Times なのさ。