こんにちは。
わたしは確かに、家庭の事情などがあっても、割とタフな人間であったと思う。実は、高校2年生で自分が爆発してしまってから、高校3年生になって、このシリーズで、始めに出てきた中学の時の同級生と全く同じ立場に陥ってしまった。
全く、学校の授業が分からない。何を書いているんだか、何がどうなんだか分からない。
故に、勘でテストに挑んだところで、勘などたかが知れている。全く、何の教科も分からなくなってしまった。文字通り、持たざる者になり、そして、大学へかろうじて進学できたが、大学で教科ごとに何を話しているのか、分からなくなってしまった。分かるのは物理と数学だけだ。これは、始めから数学科か物理学科へ行けば苦労しなかったと思うようになった。卒業さえも危うくなった。
わたしは、持たざる者になり、そこから、元の持てる者に戻ろうとあれこれ、画策した。大学でお世話になった教授たちは、わたしのあまりの馬鹿さ加減に、それで本気で大学で学ぼうと思っているのかと、あきれ果てて、自分のゼミに来いとは言わず、結局、体よく、別の大学の外研に出されてしまった。
わたしがそこで、自分を諦めることは簡単な事だった。持てる者であった自分が持たざる者になってみて、改めて、そこから這い上がっていくことの難しさに絶望を感じた。しかし、未来を画策してバイトしていた先に、後の亭主となる主人がいた。
彼は、全てを持てる者であった。彼に怖いものはない。しかし、彼も持たざることをよく知っていた。彼は、人に自分の考えを教えることが凄く苦手であり、彼の頭の中にあることは、皆が知っていることだと言う前提で話す。だから、家庭教師は、一件も成立しないままで終わった。彼とは、比較的まともに話せた。彼の思考は難しかったわけではない。彼は、物事のトリックを見抜くことが強いひとだった。ただ、彼の知っていることを知らないと言うと、徹底的に陰湿にいじめられた。
何故か、この男と結婚しようと思った。今までで唯一、日本語が通じた男であった。もしかすると、こいつの後を追えば、昔いじめられても兄貴の手を離さなかったのと同じように、奈落に落ちるのを防げるのではないか。そう考えたのだろう。
しかし、幼い頃、兄貴の後をついていこうとして、敗北感屈辱感丸出しでいたわたしは、またしても、ここで敗北感、屈辱感丸出しで挑むこととなった。元より、敗北感などは、自分の育ってきた環境で嫌と言うほど知っている。敗北感丸だしの中で、痛い椅子に座ることなど、わたしにはどうと言うことがなかった。敗北感を丸出しにして、負け組みの私は、大人しく主人のトリックを聞いた。
数時間経ったところで、気がついた。
自分が全てを理解してしまったのである。あんなに分からなかったことも、分かった事も、彼の教えるがままに、そのとおりに物事を見てみたら、なんと、分からなかったのではなく、自分はその論理が分からなかっただけであった。つまり、彼は、
A + B =C
とだけ、教えてくれた。大学の教え方は、? + B=Cだったり、?+?=Cとかいう教え方をしていた。わたしは、Aがあって、Bがあって、そしてCが成り立つということだと理解できるのだが、どうも、その頃の大学は、Cを作るには、何と何が必要かと言うことを聞いてきていて、わたしには、その単純な公式が論理的に導けず、全く理解できなかったというだけだった。Cを作るのに、作り方が一つだけであれば、誰もが困らない。
だけれど、Cを作るのには、幾らでも色々な方法があって、自分はそれを考え出したら、止まらなくなって、ただ簡単に、手短な、AとBの存在を忘れていた・・・・ってことだった。
物事を複雑に考え出して、複雑なものなんだろうと考えて、勝手に壁を作って勝手に超えられないと思って悩んでいた自分だったが、よくよく考えてみると、物事は思っていたよりシンプルだった。まぁ、そりゃそうだ、誰も学部の学生に、そこまで難しいことを求めるわけではない。
わたしは、自分自身に壁を作って悩んでクヨクヨして、もう超えられないと考えていただけで、よく考えると、そんな難しいことではなかったのだ。全ては、自分が実験してきたとおりのことで、そんな複雑な事を求められているわけではなかった。
後のわたしは、この失敗体験を、様々な場所に応用してきた。
事象はいたってシンプルに行われる。
複雑にしたい人は、複雑にする事に「メリット」がある。人生は、いたってシンプルである。持てる者、持たざる者になる前に、自分が自分の中に壁を作って、何を除けたかった(逃げたかった)のか考えてみるとよく分かると思う。自分が、他人のわずらわしさが嫌いであったとして、わずらわしさを一切取り除いた生活など、この世に存在しない。
他者と絡むことで社会は成り立っている。
その他者を上手にいなすことが、大切でり、そこに複雑にマニュアル化した日常を持ち込もうと思うこと自体が、傲慢の始まりであった。
マニュアル化したら、楽なのは、自分だけである。マニュアル化の範囲を超えた存在に苛立つことなど幾らでもおきるだろう。マニュアル化したくなるのは、人の常だけれど、その人その人によって、心の強さが違う。だから、マニュアルに、完全に誰にでも役に立つものだと言うものなど存在しない。
ちなみに、わたしは、マクドナルドのマニュアルで、ただ、DSを渡されたとしても全く理解できなかった。己の行動に一工夫を加えたがるような、自分で能動的に動かないと動けないようなそういう人間には、あのマニュアルは理解できない。DSで見れば誰でも分かるというが、見たのだが、動作を見たら一発で理解できた。
色々な人間がいて、そういう中で人は育っていく。
わたしとて、マクドナルドで働こうと思えば、そりゃ、それなりにマクドナルドが求める人材像を読み取って、そのとおりに自分を演出していく事だろう。クビになる人の問題点は、いつでも、そこの企業が、「どういう人材に、どういうことを求め、どういう結果が欲しいか」を読み取らない俺様思考が原因だと思う。
俺さまそのままで、企業が受け入れてくれると思ったら間違いである。常に、企業のニーズに敏感である事は、仕事を続ける上で大事である。
俺様の家庭事情は、企業には関係ない。俺様にどういうわけがあろうと、出来なかったら終わりなのが、社会であり、勉学である。どういう事情があろうと、乗り越えて身につける人が伸びるのが当たり前である。
自分に合うことを見つけることが、大事なのであるが、その前に、心が強くないと何もできない。マクドナルドで、罵声を浴びせられて、それでも、自分の向き不向きを知る為の勉強だと割り切って飛び込める人間は、他でも成長する。反対に、罵声におびえて、その人間関係に気を取られていると、結局、それだけで手一杯になる。どこに関心を示し、どこに無関心になるかが、問題になる。
私はそれ以降、健康にて持たざる者になり、またもや、徹底的に惨めな思いをすることとなる。だけれど、そこから這い上がってきたのには、色々な経験で培った「心の強さ」があったからだと思っている。
朋