こんにちは。

 

昔書いたのではないかと思うが、確証バイアスという言葉がある。

確証バイアス(かくしょうバイアス英: Confirmation bias)とは社会心理学における用語で、自己の先入観に基づいて他者・対象を観察し、自論に合う情報を選別し受容して、それにより自信を深め、自己の先入観が補強される現象である。(Wikipedia抜粋)


これは、平たく言えば、先に持論ありきでモノゴトを視てしまう故、偏った見方ができてしまうということである。これが、spiritualの世界には異様に多いことがある。

霊視という時点でこれを絶対に抜かなくては見ることが不可能なのだが、霊視の時点で、「当たり」をつけて見る癖 がある人がいる。そうなると、大体はどこにでも、「白い服で、長い髪の女」が出てくることとなる。他には、「白い服に赤いしみ」がついているケースもあ る。どっちも、「病的な人の象徴である。」


では、何故幽霊は白い服なのか、そこを考えてみると、病んでいる人は大体、病みっぷりが酷くなると、自分が穢れているという妄想に取り憑かれやすい。そうなると、霊性のアップも含め、白い服を着たがるようになる。つまり、穢れていない自分をアピールしたくなるのだ。


ニューエイジがブームだった頃、欧米ではニューエイジが好んで白いだぶだぶした服を着たがるようになった。他に、色々な服を着る人もいたが、異様に自分の内部の穢れに敏感な人ほど、白い服を着るようになったと言う面がある。


そこで、よく考えると、人間、生きてくれば絶対に心が穢れていない人など存在しない。どんな場面であろうと、絶 対に「欲」丸出しで何かに応対していない人等あり得ない。ご飯を目の前にして、おなかがすいていればいるほど、沢山よそってあるモノに目が行くのは当たり 前である。そんな些細なことから大きなことまで、人は「欲」の中で上手にバランスを取りながら生きている。


しかし、spiritualや、カルト宗教に染まりがちな人は、それを絶対に「許せない。」事として扱う。彼ら は心の清らかさを象徴して、白い服を好んで着る面がある。しかし、彼らも心が清らかである訳ではない。ただ、心の清らかさに対して、過剰を通り越し異常な ほど敏感なのである。


そういうメンタルの弱さに目をつけて、その彼らを上手に洗脳するのが、カルト集団である。己は絶対に清らかでは なくてはいけないと思う思い込みから、全てがそんな論理ばかりを取り入れ、好んで読むようになる。己にも絶対はない。清らかである面と、清らかではない面 を上手にバランスを取って生きるのがこの世であり、中庸である。


彼らは、病的に、清らかさを求める。


その結果として、心を病み、バランスが取れない傾いた天秤を、どうやって片方に清らかさを乗せて、もう片方に何 を乗せればいいのかを悩んで、独りで高い壁の中で悩んでいる。清らかさの天秤のもう片方は、清らかではない部分だよと教えても、それは受け入れられないの で、何を乗せたらいいのか悩む旅は延々と続き、同じことばかりを質問して歩き、自分のたどり着いた思想を感情を込めて相手に押しつける人間となる。

そういう人は、相手にも高潔さを求め、高潔さの中で、生きていく人を尊敬し、そしてその人が清貧であればある程、尊敬するようになる。


意外と、その要求こそが、清らかではないという考えには至らないようなので、困った事である。その理不尽な他人への要求こそが、清らかではないので、あなたの天秤は釣り合うのだと言っても、恐らく納得はしないであろう。


人には色々な面があって当たり前である。高潔で誰もが尊敬できる人材は、あまりいない。大きな物事をやれる人 は、大体は人格が破たんしていたり、周囲の協力があって出来上がっているひとだったりする。しかし、しばらく平成の世の中は、そういう人材を潰して歩い た。そういう人格破綻者が見せる「芸術」というモノこそが、大変に面白く、一風独特の世界観を鑑賞して楽しむことに対して、手ひどく世の中は当たった。

アイドルは、高潔であり、お客様が恋人であるという妄想もよくあることである。しかし、アイドルだってトイレに は行くし、おなかは壊すし、握手会で手を洗ってこない奴は嫌いだし、そりゃ色々あっても、言わないでやるからこそ、そういう妄想に取り憑かれた人に、上手 にマッチするのである。要は、演出である。


カルト教祖は、演出を上手に心がけるからこそ、病的なまでに清らかさを求め続けて行く人の琴線に触れる。


でも、理解してほしいと思う事は、


穢れている自分は、当たり前なのだということ。

穢れていることから目を背けてはならないこと。

穢れている自分を嫌ってはならないこと。

生きていく為に穢れていくことは、当たり前なのだということ。


そして一番大切なことは、


「欲」は程ほどであれば、穢れの内に入らないこと


だと思う。病的な人ほど、その「欲」を持つことさえを嫌うが、無理に菜食主義にして、器質に食生活が合わず、不 定愁訴を述べる人がいる。無理に、「欲」を押さえすぎて、別方面で過剰なほど乱れる人もいる。どこかで上手にバランスを取って、その場面から明らかに逃避 している面を取り除かなければ、あなたは日常生活がうまく行かないんだと考えていただきたいと思う。

菜食主義でなくてはいけないという、法律はないし、そして体に悪いということはない。現に揚げ物を食べてご長寿を誇る人もいる。問題は、些細なことに縛られて、あなたが身動きができず、「不満が溜まる」ことである。

人間の社会はストレスばかりであるが、「欲」を取り除いたところで、ストレスが減るものではない。問題は、「過 剰な欲」に値する「妄執」「固執」「執着」「粘着」という点を、どう上手に社会の中でいなしていくか、どう上手に社会で交渉上手となるかである。そこで気 にしなければならないことが、「法」である。


世の中には、あれこれもっともらしい事を言う人が多いが、基本的にこういう人は「法」に抵触することを行う。


日本が法治国家であることを時折皆さんは忘れるようだが、わたし達が一番守らなければならないことは、「法」であり、法の下に裁かれる身として、菜食主義が法に抵触するとは限らないが、あなたが恫喝する程、相手に高潔を求めて、お布施を強要すれば、それは、「法」に抵触するのである。

spiritualが一番抵触しているのは、「法」じゃないかと思う。


己の信条を貫くことはいいことだと思うが、その信条である、清らかでいたいがために、「法」を侵すことはどうかと思う。


そんな現実があるからこそ、相変わらず幽霊は、ブラックフォーマルドレスを着てくることなく、白いワンピースに、伸びっぱなしの汚い髪で、Most performance大賞が取れるほどの演出を行い、今日もあなたを待っているのである。



下痢をしたら、浄化ができたと喜ぶ集団は、正直理解できない。あまりにひどい下痢をしたら、ノロを疑うなり整腸剤を貰いに、病院へ行くべきだと思うがね。