「北極星を目指して」 (左脳のひらめき)

I'm your polar star in the journey of life.

カテゴリ: 幸福へ

こんばんは。

わたしの母と父は、博物館が好きで、絵画鑑賞が好きで、彫刻とかも見に行く人だった。日本のどこにでも、わたしと兄を引っ張って、見に行った。特に、上野は聖地のようなもので、何かあったら、直ぐ上野。

正月前は、それに御徒町アメ横巡り。

父は、娘の手を引き、マグロを値切って楽しそうだった。わたしは、人ごみでゲロゲロして、お漏らししても、替えのパンツがあるからいいさ、の勢いで、練り歩いた。

わたしは、帰りには疲れて歩けなくなり、宇宙語を話し出しよく熱を出したので、父は、わたしを背中にオンブして、帰ってくれた。

帰って来て、お風呂屋さんに行く時は、寝ているわたしをオンブして、家族4人で、桶を持って、隣町まで出かけ、お風呂についたら、起こしてくれて、母と温まったら、また、父が担いで、家まで連れて帰ってくれた。

わたしは、そんな父親が好きで、背中が暖かかった。

分からない印象画を見るより、日展とか、油絵ばかりだっだ記憶もあるけれど、上野は、よく展示会をしてたので、出かけて、それが幼い頃の娯楽だった。

親は、決して子供用の商業施設に、連れてってくれることはなくて、動物園より、絵画鑑賞が多かった。近所の図書館で本を借りに行く週末も、父の後ろに乗って、自転車で行った。

眠ったようなわたしを、父がオンブしてた時、母はこう言った。

「この子は、パパの一生モノ」

父は、お嫁に行って欲しくないなぁって、言ったら、寝てたはずのわたしは、父に抱きついて、「パパのそばにずっといるよ。わたしから離れちゃダメだよ、パパ」そう言われた父は、嬉しそうな顔で泣いていたという。

 

時代は代わり、わたしは、母親になった。親の都合で振り回した事はなく、次男は、自分のやりたい事をやって疲れて、夜眠そうになりながら、「夕ご飯」屋で、舟を漕ぎながら、ご飯の後のパフェを食べている。

帰り道は、車で、次男は眠ったようで、あとは、駐車場から家まで歩くだけ。

舟を漕いでる次男を、主人がそっとオブったら、次男は幸せそうにとろけそうな顔をして背中にしがみ付いて、寝入った。そうか、今度は、わたしが言う番なのね。

「この子は、パパの一生モノ」

主人は、横に歩く長男の笑顔と背中の次男のぬくもりを感じて、愛おしそうなとろけそうな顔をして、泣きそうな笑い顔をした。

 

子どものわたしには見えなかった父の表情が、今やっと見れた気がする。

 

 

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強くなりたい
Defstar Records Inc.
2013-10-23

こんにちは。

強くなりたいと願うことがあって、強くなることばかり気にして過ごした。

けれど、強くなっていくのは、全然関係のない部分ばかり。必要な、自分の弱さをどうすることもできない。弱いところばかり浮き足立って、結局、なんにも自分は進歩していないとまで、考えてしまう。

けれど、何が強くなったんだろうか。

こんなことに弱くなってちゃいけないけれど、何に強くなったんだかも全くわからない。

強さを願うあまり、色々なものにあやかって、強い自分になれるようにとお願いしてみる。けれど、本当の強さってなんなんだろう。今、眼の前にあるこの弱い自分を「受け入れてやれるだけの自分」になるってことなんじゃないかなって、ちょっと考えた。

自分はどこから見ても弱い。どう考えてみても弱い。弱いからこそ、よく吠える。キャンキャン、うるさい程あれやこれや、手を出して、人の事情にお せっかいを焼く。でも、どうしてなんだろうと考えてみたら、弱いからなんだよね。人に見捨てられるのが怖いっつーか。人に必要とされていたい。そこが、物 事の本音だったんじゃないかと思うんだよね。

それで、やっぱり、世の中、色々な所で怒られている人を見たりもする。

こんなところで怒る必要もないじゃないかと思いながらも、理不尽さを理不尽さで通すしか、道はないんだろうか。

そういう意味で、理不尽を超える勇気が欲しかった。

 

勇気は、心の強さだと言うけれど、本音を言えば、相変わらずわたしは弱い。弱いところだらけで、ええカッコシイで、結局は、見えっ張りな面もある。負けず嫌いで、のし上がっていく中で、本当に強い人なのかと問われたら、即、「実は凄いヘタレなんです」と答えると思う。

 

先日、安倍総理が、FBにて、ご自身が批判されたのを受けて、批判し返した。

 

こんなことさえも、総理として許容できないのか。人々は皆思うと思う。けれど、総理だって、本当は批判されるのが怖い、メンタルの弱さがあるし、つ いでに言えば、誰だって褒められたい。あなたが苦手な上司も、あなたをパワハラする上司も、実は本当は、褒めてほしい所を持っている。

 

プレジデントに載っていたんだけれどね。なんで、ソフトバンクの孫さんが、ツイッターをやるのかという話で、本当は、一般大衆から褒めてほしいので はないかという見解が書いてあった。あんな大きな組織のトップになったら、きっと褒めてもらえて、お追従の毎日であると思うだろうけれど、実質、褒めて欲 しくて、認めて欲しくて、どんなに上に上がっても、人の本質はそんなもんなんだよ。

上になったんだから、立派に責務を果たして当たり前ではなく、それでも、一般に打たれ弱い面もあるんだよ。批判が身にしみることも、辛すぎることもあるんだよ。そんな弱さ、誰もが持っているんだ。

だから、強くなることより、弱さを超えたいと思う。

 

なので、まず、上司を褒めることにした(苦笑)。

 

おっさんは、苦笑して、「君の意図は読めている。うちが、なんの専門か、忘れたようだね。」

 

そうだ、行動経済学をやってきて、今更、おっさんを褒めても、意図はまるわかりである。でも、おっさんは、ちょびっと、嬉しそうにしてた。帰り道、スキップしていた。

きっと、誰も、同じ事を考えて、誰も同じ寂しさを抱えて、誰も同じ満たされない思いで生きている。

それを、自分が受け止めてあげるだけの自分になることが、強くなるより必要なことじゃないかって思うんだ。

強くなって相手と戦うだけじゃ駄目なんだ。

 

 



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こんにちは。

世の中には、絶対的な正義なんてないのです。

絶対な価値観など存在しませんし、あなたが感じる常識と、世間の常識が違っても、それを押し通すことはできないのよ

絶対的な正義を振りかざそうとして、電車の中で、一生懸命自分の居場所を、人を蹴飛ばしてまで守る人もいるけれど、それも、また、ひとつのあり方だ と思うのよ。恐らく、わたしが、無理にその人に柔軟性を求めなくても、きっと、もっと蹴飛ばす人にその人は出会うでしょうし、その時に負け組ですって吠え 面かいても、それを誰も認めないわよね。

人間って、生きていくこと自体、エゴの中でエゴをどう通そうかと言うジレンマや葛藤の中で悩むものなんだから、今、あなたが、気に入らない人に鉄槌を下す必要なんてないのですわ。

無論ですが、鉄槌を食らわしてやりたいほど、人を舐めきっている人はいますね。

でも、その人間が、最後にどうしてもどう聞いても、嘘だと思えるような話にて、自分のプライドを守ろうとしていると、様子が見えた時は、

 

「無理に、嘘だという必要はない」と思うの。

 

いいのですわ、そういう時は、傾聴してさし上げて、その方のプライドを守ってあげる。相手のなけなしのふんどしをはぐ権利など、誰にもないのですわ。

 

なけなしのふんどしを剥いで、裸にしてやるような鬼畜なんて、死んでしまえばよろしくてよ。

 

そうじゃなくて、褌一丁じゃ寒いでしょうし、女の方なら、ブラもお付けして、ついでに、ユニクロのシャツくらいかけて差し上げるようなお心遣いは必要なんですよ。男の方なら、パンツだけじゃイケないので、ステテコ位はお付けしておきましょう。

 

本当に、本当に、自分のことを色々してくれた相手になどかける情けがないのは、わたしが、姑の件でよく知っています。でも、わたしは、姑の電話をま たしても、うっかり「着信拒否」設定にしてしまい、家電にさえも、「着信拒否」を設定してしまったようなので、姑は、主人にしか話ようがないでしょう。そ の主人さえも、「うっかり」、ご自身の携帯を失くされてしまったようなので、もはや、音信不通状態なのですが、それはそれで、いいのですよ。

音信不通なら、何も相手のふんどしを剥ぐ行為もできませんしね。相手に、ふんどしを盗まれることもないし、穏やかですわ。

 

でも、ほんと、電車の中で、本が読みたいのか、一生懸命、相手を頭突してまで、場所を取ろうとする人、よく見かけます。

混んだ電車の中、周りを見ればよく分かるのですが、人を蹴っ飛ばし、殴ってでも、そこで、読みたい本なのでしょう。

そういう余裕がない人に、余裕を求めること自体間違っています。もっと余裕のない人が、その人に、くさい息を吐きかけて絡んでくださるので、ご自分の手は極力汚さないことが一番です。

中途半端に深入りしない。

 

これぞ、中道ですわ。

 

 

朋@スピリチュアルとしては、大変にいやらしい文章かもしれませんけれど、いわゆるひとつのナイスな処世術ですわ。


虚言癖、嘘つきは病気か Dr.林のこころと脳の相談室特別編 (impress QuickBooks)
林 公一
インプレス
2014-08-28 (林さん、ついに書籍化したんだ)


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泥に咲く花
庭りか
秋田書店
2013-05-31


こんにちは。

誠実にしていても、結局世の中は理不尽が多い。

這い上がろうとしても上がれない、底なし沼のような、足を取られて動けない泥沼のような状態で、生きている。

その中で、泥から立ち上がることばかりを考えていないで、泥から咲き上がることを考えるようにしている。

 

一歩抜けると、そこには、何もない。

 

今まで奇跡を起こしてきた人が、沢山エッセイを残すけれど、その中を紐解いても、よく読むと、彼らは結局、山の頂上に到達したんじゃなくて、山の頂上に見えたところで、納得してしまったんだなと思う。

山の頂上は、きっと、誰も行ったことがないはずで、今回の自分は、山の頂上には、どんなに頑張っても、届かないのではないかと思うことがある。

 

見えない頂上を目指して、沢山の人が山を登り、その中で、そびえ立つ峰に諦めを思う人がいたり、ストイックを極めて頂点を目指す人がいると思う。

 

だが、本当の山の頂は、誰の目にも見えないのではないかと思う。

 

だからこそ、泥の中を這いまわるような生活の中で、一見、根が張っていないような生活の中で、不安定さが極まりない人が多くいる。けれど、皆、実は、目指しているところは同じで、同じだけれど、やり方やアプローチや、その時々のイベント発生が違うだけなんだろうと思う。

お金で買える幸せも、お金では買えない幸せも、両方味わわないと、味わってみた感じは分からない。

でも、幸せも、どこからどこまでが幸せですという明確な定義がないからこそ、人は、形に見える何かにすがるのだろう。

 

あなたも、わたしも、泥の中。

 

そこから咲く花になった時、どんな風景が見えるだろうか。

 

咲いた時は、もう、次の花目を咲かす事に熱中するのではないだろうか。満足しない生活こそ、伸びる鍵なのではないか。

愚痴をこぼす前に、今、やれることを洗い出してみて、やってから考えよう。残っていることがないか探すほうが、できないことを愚痴るより、遥かに前向きな形で、あなたを強くし、あなたの生活を素晴らしくしてくれる。

 

 

すべての山に登りなさい(過去ログ参照)

 




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こんにちは。

自分の道は自分で切り開く、そう教えられて、育ったわたしは、甘えて人に依存することを社会に求めた。

甘えて依存する人が多い会社は喜んでわたしを受け入れてくれる。けれど、彼らも甘える。結局は、わたしが疲弊し切るほど、甘えて、甘えたことに対し、できていないことを、感情で文句をいう。

わたしは、甘えて、自己中でいられる人生が良かった。

そういう人生を歩みたかった。文句を言いながら、ひとに養ってもらう人生が良かった。でも、わたしが、どうしようもない心臓病の際、世話にならなくてはならなかった場合、どの人も冷たかった。手のひらを返したように、人はわたしの前から消えた。

 

わたしが、再び、ひとと同じフィールドで動くようになって、人は集まり始めた。依存しないわたしに依存したがる人が群がった。

 

わたしが、なりたいのは、依存して、いい加減なことを言って、

「自分の起こした悪の代償を、他人に押し付け、払わせることができる」人間なんだよ。

 

なんで、なれないんだよ。なんで、なんで、どこまでも、わたしは戦い抜かなくちゃいけないんだよ。どこまでも理性的で、どこまでも、人は何をわたしに求めるんだよ。わたしは、誰に甘えることが出来るんだよ。誰がわたしを甘やかしてくれるんだよ。

 

いい加減なことを言って、詐欺まがいなことをする主人の母をずっと羨ましく思っていた。

 

人を煽り、自らを悲劇のヒロイン化し、酔いしれる彼女が羨ましかった。

 

わたしは、結局、そんな母親になれそうもないし、わたしの息子は、ACでもない。わたしの小さなカウンセラーでもないし、わたしにとって、何を導き出すこともできない。非力な状態である。だから、その中で、わたしは、相変わらず戦い抜いている。

 

甘えて、寄り添って、甘やかしてくれる人は、きっと、不倫でもすればいるのだろう。

 

そうやって、最近、不倫をする中年女性の心理を感じるようになった。更年期かと思ったが、更年期を超えたら、やり放題じゃん(不謹慎)とか、考えた ら、そういう意味ではないのだろうと思った。「甘えて過ごしてきたんよ。」と言って、子供に自分の甘えを正当化させる母にはなれなかったし、「子供の甘え を受け止める」母になってしまった。

 

それじゃ、受け止める先は、不倫相手じゃないか。・・・・・と思うが、残念ながら、スペックを満たす不倫相手を見つけることは不可能である。(苦 笑)。わたしが望む不倫相手のスペックは、恐らく、終電で帰宅し、早起きして体を鍛えるようなそんな男は、ストイックバリバリなので、まぁ、まず無理なの だろうと思う。

 

そうだな。自己中を貫き通して、甘えられたら、ほんとよかった。

受け入れてくれないひとの愚痴をこぼして、受け入れろと相手に強要し、徹底的に受け入れないことに対し攻撃する人間になりたかった。

受け入れられることが当たり前な自分でいたかった。

医療過誤から得たトラウマにより、わたしは、受け入れられることが当たり前ではなく、オドオドする人間になってしまった。

 

良かった人生かどうかは、わたしの価値観一つ。

 

ひとつだけ、言えば、わたしの人生で、ヨカッタと思う。受け入れられないことに憎しみを感じてばかりだったら、今頃、平穏な気持ちにはなれなかったと思う。

でも、ただ守られて生きて行きたかった。

 

 




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こんにちは。

時々、間違いを認めない人を見かける。間違いを指摘すると、突っかかってきて、あなたは、もっとこうでしょ?と言い返すような人。

こういう人とのやり取りは、互いが成長をしないので、不毛だと思っている。

何故、不毛かというと、相手の間違いを見つけることで、自分にとって、こういう間違いをすることもあるんだという、いいケーススタディとなる。反対 に、自分の間違いを指摘されれば、自分が見ても気づかなかった、間違いの癖を掴むことができる。間違いがどこで起きるのかをシェアできると、実はすごく有 意義に物事が運ぶ。

だけれど、人は、間違いを指摘されれば、非難されていると受け止める人が多い。

非難をしているわけではなく、より高い向上に向けて、一緒に努力しようと思う人は中々少ない。少なくとも、間違いを認めない人は、成長はしない。自分で間違いを指摘されたことに腹を立てて、相手の重箱の隅をつつくようでは、成長する部分が欠けているとしか思えない。

人の間違いは、必ず自分だって行なってしまう可能性がないとは言えないからこそ、学ぶべきことはたくさんある。

相手から、指摘される間違いは、自分が見ても気づかなかった問題点を洗い出してくれるチャンスである。体面がどうの、体裁がどうのとか、言っている 間は、成長などしない。馬鹿でものろまでも、自分の間違いを認め、間違いを起こさないように、少しずつ自分の癖を変えて行かないと、成長しない。

進み方は人それぞれではあるが、まぁ、とかく、早く習得する人ほど、間違いを認めやすい。どこが間違っているか、きちんとメモをして、そこを気をつ けて、少しずつ改善していく。同じミスを犯す人は、大体、既に、間違いを起こしたことを、あまり深く受け止めていないのだろう。だから、その積み重ねが、 今の人生にでているという事になる。

負け組だ、勝ち組だ、人は一喜一憂しやすいが、今、何故自分が崖っぷちなのかを考えてたら、人のせいにはしていられないと思う。

 

崖っぷちになって、周りから腫れ物を触るような扱いを受けてから、やっと、改善しようとしても、小さなミスなら、ほんの3日くらいで済む傷だが、あ んまり崖っぷちだと、流石に、あなたの評価を上げようとしても、ドンドン孤立していく。人に媚を売って、何とかしようとする人も多いが、中身が無いからこ そ、媚びを売るのである。

どのみち、指摘のしあいっこは、所詮、「お前、チャック開いてる。」「んじゃ、お前、鼻毛出てる。」の争いの延長線である。

 

チャック開いていることに、自分のふんどしをきりりと締め直し、鼻毛を指摘されたら、鼻毛を共に整え合う状態までの謙遜へ向かうには、

 

人のプライドというか、くだらない見栄というか、こういうのは、どこまでも邪魔をするものである。

 

 

まぁ、そもそも、見栄を張るには、それなりの努力は必要だが、時に浅ましいBBAになっている人もいる中で、毅然とするということの難しさを学ぶね。

 

 

 

 

ちなみに、目くそ鼻くそを笑うとは、よく言われる諺であるが、個人的に、結構指摘を受けたら痛いものが、鼻くそである(笑)。

だけれど、昨今、花粉症のシーズンの中、実は、画期的な薬が出たという。聞くと、一回の噴霧で、鼻の内部をコーティングするのだという。これが、実は、副作用とも言える欠点があるのだが、鼻の内部をコーティングするので、鼻くそが、多量に出るという悲しい使用報告がある。

 

どうだい、それでも、人は、花粉症からは逃げられないのなら、頻繁にトイレに入って、鼻をほじくりながらでも、特攻薬を使いたいと思うと思わんかね。

 

人というのは、パラドックスの中で生きるものだからこそ、悩んで苦しむのだよ。君。

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こんにちは。

あなたは幸せになりたいと思うだろう。誰もが、幸せを願って競争を繰り広げる。世の中はそういう社会で、競争しないで得られる幸せで満足できるのかと言われたら、恐らくほとんどの人が、半分は「不本意」ながら、それで幸せなんですと答えるか、うつむく事だろう。

万人が願う幸せは、それぞれの器質や精神面より、随分変わってくる。
しかし、それでも欲しいモノは、ある程度人と争わなければ、手に入らない。争う事をやめて、過ごしたとしても、「老い」を実感する時、きっとあなたは、しらふではいられなくなるだろう。

若い時、争っておけばよかった。スタートが出遅れた。もっと焦ればよかった。

そんなことを考えるんじゃないかと、わたしは思う。
人の価値観は、年を重ねるごとに経験によって変わってくるので、確かに今欲しくないモノを、後に痛烈に欲しがることもある。しかし、今欲しくないと思って、その後欲しくなる可能性がないか、もし欲しくなった時、自分にきちんと言い訳ができるかどうかは、「今の生き方」次第ではないだろうか。

あなたは、きっと満足するということが、一生ないと思う。
何故なら、それが人間の人生だから。満足して、満ち足りてしまったら、きっと人は成長しない。人の歴史的進化に基づいて考えると、人は一生満ち足りること等ないのだろうと考える。
そうしたら、あなたの最高の幸せは、いったいどこにあるんだろう。

婚活をする人は、結婚式が最大の見せ場で、その後の生活の事をよく考えていない。
就活する人は、採用される企業のネームバリューに満足し、与えられるポストと給料にだけ安心し、それ以降の職場の「暗な面」を考えようとしない。

上記の人は、これがゴールではないことをよく考えていて欲しい。
結婚式をすること、入社すること、それは単なる入り口で、生活を維持したり、環境を維持したり、自分の身分を維持することは、それ以上に大切で大変なことなのだと考える。あなたは、そのまま、その生活を20年以上続ける必要がある。だとしたら、入り口で浮かれている場合じゃない。

その後、シビアな現実と、突発的なイベントの中で、不幸と幸福の天秤は、上がったり下がったりして、不安定を極まりない状態になる。

だから、諸行は無常なんだと考えて欲しいと思う。
いつも、同じじゃない。時が過ぎれば変わる。時が過ぎれば変わることに救われている人もいれば、時が過ぎて焦りだす人もいる。
だから、目の前だけを見るのではなくて、遠くを見て、後悔しないかということを常に自分に問いかけ、満足して浮かれる日は、1日で十分だと思わなくてはならない。

幸せは、すり抜けていく。

だから、いつでも「身構えて」しまうと、うまく受け取れないので、「身構えないけれど、フットワークは軽め」にしておくことが、大事なことだろう。その極意は、心の余裕にある。



幸福の習慣
トム・ラス
ディスカヴァー・トゥエンティワン
2011-10-16(かなり面白かった)

幸福な生活 (祥伝社文庫)
百田 尚樹
祥伝社
2013-12-12(ある日、家に帰ったら妻が不倫していた)

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こんにちは。

何もかも世の中、自分が思うことがどうであるかをちゃんと分かっておく必要がある。

幸せそうに見える人、羨ましそうに見える人、世の中には、沢山いる。

けれど、その人達は、全てが幸せなのではなくて、どこか、欠けたものを持っていて、そもそも、欠けていることさえも気が付かないのかもしれない。けれど、周りから見ると、幸せそうに見える。そして、余裕があるように見える。

でも、それを羨ましいと思うのか、単に妬むのか、あんな風になりたいと、少しでも努力するのかは、自分次第。

そして、一見幸せそうに見えている人たちが、本当に自分自身を幸せだと思っているかどうかは、分からない。聞いてみても、殆ど答えないと思うよ。

反対に一見不幸そうに見える人。これも、本当に自分のことを不幸と思っているかどうかは分からない。

お金が多い生活少ない生活、両方体験してみないと、どちらの気持ちもわからない。

健康な生活、不健康な生活、どちらも体験してみないと、なんとも言えない。

忙しい生活、暇な生活、どちらがより幸せかどうかなんて、当人の思惑次第。

まぁ、そんなこと言っている前に、働けよって思うんですけれどね。この国は、子育てを終えた女性が、もっと働いて、自分の世界を持ってもいいと思う んですよ。働くことで、社会に揉まれて、そこでまた、タフにもなるしね。社会に負けて、あれだこれだ、愚痴をいう人も多いんですけれど、これもね。自分の 時間をどう取るかに寄るし、意外と、能力以上の仕事についてしまって、苦労してしまう人だっている。

でも、引き下がることだけが人生じゃない。引き下がる日には、また前に進む日を夢見て、引き下がって欲しいとも思う。

昨日、ストレスをためにくい体質って事について、ちょっと調べていたんですけれど、やっぱり、自分の時間を持つ人って圧倒的に強いんですよ。わたし だと、寝ちゃう癖かな(笑)。そもそも、会社のことを忘れるくらい寝ちゃってたりして、土日はさむと、会社でやるべきことがスッポ抜けてて。

でも、それくらいでイイんですよ。それくらいがいいんですよ。

 

四六時中、あーだこーだ、同じ事について考え続けている事のほうが、疲れるんですよ。

 

そりゃ、スッポ抜けてりゃ、あれもこれもありますけれど、リフレッシュって程よく必要なんですよ。同じ事ばかり考えて、思いつめている人より、やるべきことだけやって、スッキリしている人のほうが、笑顔ですって。

 

でも、世の中、辛い辛いとか言いつつも、案外その状態を享受している人たちを見ていると、口に出る言葉と、心の裏側は、意外と違うんでしょうね。

 

 

ところで、この週末、よく寝ました。昨日は、ほんと良く寝ました。妙な抜け感があって、スッキリしました。というか、ほんと、人間って寝れるんです ね。あそこまで、寝ていると、なんとなくですが、自分にとってのストレスもないだろうなと思ったりします。朝、起きてきて、現実の設定に馴染むのに苦労し ました。夢の中で、オムニバス形式の一つが出てきたんですが、先日、わたし、夢の中のテラスに、椅子とテーブルを置いて、一人まったりしていたんですが、 そもそも、そのテーブルとか、椅子って、どこから持ってきたのかしらとか、なんの記憶から持ってきたのかしらとか、考えていたら、

 

すっかり、会社で何をしたらいいのか、忘れていました(笑)。

 

こんな程度がちょうどいいんですよ。重くならない。

 

 

何が重いのか、重くないのか、自分でも考えるべきなんでしょうか。

 

 


ポップなデザインがお洒落!!  幸せ happiness を呼ぶ♪ 名刺入れ カードケース アルミ レディース  ビジネス カジュアル (ハピネス)
HOLI(先日、中国の有名な悪徳サラ金が、この名刺入れによく似たデザインを、ノベルティに使用しておりました。いいなと思っていたのですが、大変残念です。ノベルティは、使用する機会がなく、大変残念です。)


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幸せがずっと続く12の行動習慣
ソニア・リュボミアスキー
日本実業出版社
2012-02-16

こんにちは。

なんとなく、思う。今の状態は、決して長くは続かない。幸せを掴んだと自分で思った時、いつも幸せは、わたしの手からするりと逃げていった。

いつも、いつも、なにかしら、良いことの後には、悪いことがあり、それでバランスが取れているんだとしたら、神様、この配分はあまりに劇的な落差がありすぎて、進むのが怖くなる人が多くなるのも無理は無いよ?って思うことがある。

良いことがない人には、悪いこともない。何も起きない。何も起きないから、暇で退屈で、自分を持て余す人もいる。

わたしが、仕事を辞めた時、自分で思った。習い事に出かけても、きっと何も自分は満たされない。何をしても、満たされない。そう考えて、不平しか出てこない自分、不幸自慢しかできない自分、そんな自分がすごく嫌だった。嫌だったけれど、誰かに認めて欲しかった。

震えるような孤独の中で、自分で満たされない自分の中を覗いて、あまりに真っ黒で、とてつもないブラックホールのような気がして、自分が本当に嫌になって、死んでしまえば満たされるのか、そういうことも考えた。

きっと、だれにでもある感情で、誰もが、満たされたいのだ。

だけれど、大きなチャンスを掴めば、必然と何かは代償として起きるのだろう。

今の幸せは、今までのあまりに惨めすぎるこの6年間の代償なんだろうか。しかし、それでも、思うことがある。

 

もう、失っても、恐れない。

もう、逃げたりしない。

何がなくなっても大丈夫だよ。

 

 

わたしは、わたしの中にいて、わたしがわたしを満たしてくれる。

 

だから、何がなくなっても、もう大丈夫なんだ。答えはきっと、わたしがくれる。わたしが、わたしを満たしてくれるように、わたしがわたしに答えをくれる。

 

だから、幸せが今度またなくなって、また、トンデモナイ事になっても、もう大丈夫だよ。

 

きっと、わたしなら、そのトンデモナイことを楽しんじゃいそうだからね。

 

人生は、ずっと同じ事が続くわけじゃない。日々、新たにし、日々変わりゆく。

 

その中で、どんな中でも自分を信じて、自分の答えを信じ切れた時、大丈夫だよと、自分が自分に言えるのだと思う。

 

 

そんなことを、帰りの電車で考えた。

きっと、次の不幸に出会っても、きっと悲しい別れがあっても、もうわたしは大丈夫。

 

 

 


(綺麗ごとでも、綺麗ごとで収めて欲しい時がある。最高の幸せは、自分の価値観が決める)
敬老の日ギフト 長崎カステラ風呂敷包み ふわり 幸せの黄色560g 長崎心泉堂
株式会社長崎製菓
(これで、抹茶があったら、最高の幸せ)



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