こんにちは。

今になって、そうなんじゃないかなと思ってしまうことがある。

お父さんは、世の中の不条理に対して、いつも怒っていた。自分に降りかかる理不尽に対して、いつも怒っていた。

そして、我慢を重ねていた。

そんなわたしは、子供ながらに、お父さんは怒り過ぎだの、沸点が低いなど、話をしていたが、でも、今になってみて、しみじみ分かる気がする。

別にアダルトチルドレンを作った男の代弁をしようと思っているわけじゃないんだけれど、お父さんは、我慢しきれなかったのだと思う。

父はとかく、優秀だった。頭が良かった。そして、何にでも気がついて、観察癖は、ぴかいちだった。20年先の技術を模索して、研究生活に入ってたこ とに関して、何故、即認められる企業等に入らなかったのかと不思議に思ったことなどがよくある。父は、論文を書く生活が好きだったのだ。高じて、何か、も のを書きたかったのだと今になってみて、しみじみ思う。

即認められない技術を模索して、論文を書き続けて、そして、彼の私生活は、頑なに理不尽のオンパレードだった。我儘な親、我儘な姉、我儘な親戚、理 不尽とも言える祖父母に囲まれ、彼の生育環境は、それでも、彼が素直で謙虚だったからこそ、どんなに悪環境であっても、どこからか、救いの手を差し伸べる 人が多かったのだと思う。

それでも、彼は生育環境の悪環境を一手に引き受け、我慢できなかったんだろうと思う。

24で胃を壊し、彼は、母と結婚した頃には、既に、胃潰瘍を患い、そして、30代で癌になった。

優秀だからこそ、周りに頼られる部分があり、それがまた、彼にとって理不尽だったのだと彼はよく話していた。だから、癌になった時、これで、周りが自分への対応を緩めてくれるだろうという期待があった。だけれど、やっぱり、理不尽なままだった。

父は、母に手綱を握られながらも、我慢に我慢を重ね、そうして、自己実現の場を、株へと見出した。

彼のチャートは、実によくできていたが、今考えると、株は、株主に儲けさせるためにあるわけではない。故に、彼が搾り取られることもよくあり、結 局、それで、更なる理不尽を得ることとなった。しかし、その間、どんどん、病は体を蝕んでいき、それでも、理性だけは強かった父が、我慢に我慢を重ねて、 我慢しきれないときに、子供に対する理不尽な暴力や、理不尽な支出があったのだと思う。

父はよく、ぼおっとしに、パチンコに行くこともあった。

昔のパチンコはそれでも、遊ばせてくれるので、父はよく、パチンコで遊んでいた。そして、景品を沢山持って帰ると、母が露骨に嫌な顔をして、それを しまっていた。景品では、主に缶詰を持って帰ってくるのだが、時々、母にすまないと思うのか、母に向けて、ペンダント型の時計や、可愛らしいアクセサリー を持って帰ることもあった。だけれど、頑なに母はそれを拒否し、嫌がった。

痛みに耐えかねて、我慢の限界を超えると、父は家に残っていたわたしに、理不尽な言いがかりをつけ、そして、わたしの私物を容赦なく壊した。わたし は、わたしの自我が完璧に崩壊してしまうほどの理不尽さを突きつけられ、かといって、発狂することができず、親譲りの理性の強さで、我慢しどおした。わた しは、その我慢が耐え切れず、体に出たときは、便秘になったり、顔に吹き出物が出たり、アレルギーになったりした。14で胃潰瘍になった時、父は驚愕し た。

父にわたしに対する対応が理不尽だと言ったことがあったが、父は社会に出たら、こんな理不尽なんかで収まるわけがないのだと、逆にわたしを非難した。

母が受けている理不尽を見ているわたしとしては、二の句が告げなかった。

 

今となって、病気を抱えて、働いて思うのだが、世の中は、自分の体を維持するだけで、十分ヘトヘトである。逆に維持できない時のほうが凄く多い。

 

どんなに考えを変えてみても、どんなに何かに変えてみても、結局、自分の病は自分にとって永遠の理不尽であり、この理不尽をどうやり過ごしたらいいのか、途方に暮れる時がある。けれど、その理不尽に、耐え切れず、自分だって我慢できないときなど幾らでもある。

 

お父さんは、辛かったんだなと思って、帰る帰り道。

 

もう少し、優しい言葉をかけてあげればよかったと思うことが、今になってある。

 

そういう自分は、きっと、今、優しい言葉を求めているんだろうなと思うこともある。

図らずしも、運命は、わたしに父と同じ、病人として働く道を与えた。その中で、我慢して我慢して、我慢しきれずに、泣き出しそうな時もある。

父のあの背中の意味が、今になって分かる気がする。

 

子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方
クラウディア ブラック
アスク・ヒューマン・ケア
2003-07-30